その132 『残り休暇』
「どうやら帰ってきたようだ」
「お帰り。思ったより、早かったね」
甲板ではマレイユとミンドールが小休止していた。
「ただいま帰りました」
リュイスが言って、イユが続く。帰ってきて、少しほっとした。あれからヴァーナーとはまるっきり話していない。到着した後も一言も会話ができずにいた。
「何か買ってきたのかい」
ミンドールの目が優しい。
イユは、日記帳を見せた。
「これは……?」
「日記帳よ。ここに文章を書いて、文字の勉強をするの」
それはよかったねとミンドールは答えながら、思うところがあったらしい。マレイユに話しかけた。
「……やっぱり、彼女、真面目すぎやしないかい」
「それが彼女のいいところのようだ」
マレイユの感想に、そうではないと困った顔をしてみせる。
イユにしてみれば、ミンドールが何に困っているのかよくわからない。
「せめて、残りの休暇はゆっくりお休み」
言われて、頷く。
大人しく部屋に戻ったが、まだレパードは来ていなかった。リュイスとともに部屋の前で待っていると、途端に財布のことが思い出された。しかし、先ほどの件を引きずっているのか、どうにも作る気になれない。
鞄から生地を探して、手に取る。そうしてから、ふと気が付いた。こんな風にのんびりと待つことが、イユの人生で殆どない経験だということに。この船では、憧れていた人としての生活が与えられている。おまけに知らない街で感動することも、文字の勉強をすることもできる。この船には何もかもがそろっている。改めて思うのだ。なんて贅沢なのだろうと。
手放したくない。そう強く思うと同時に、不安が掠めた。
どうしても先ほどのヴァーナーの声を想起してしまう。イユは甘かったのだ。リーサの過去に何かがあったことは薄々察していたが、あれほどのことなんて思いもよらなかった。ヴァーナーの気持ちを聞いても、リーサのことが好きなんだなぐらいにしか思っていなかったのだ。あんなリーサの姿はもう見たくないという彼の切実な思いに、イユは正直動揺した。そんな彼らに自分のエゴをぶつけてしまっていいのかと悩んでしまったのだ。
「待たせたな」
声に振り向けば、レパードが歩いてくるところだった。
レパードなら何か知っているのだろうか。聞くかどうか悩んでいるイユに、レパードが先手を取った。
「案の定、ヴァーナーと何かあったか」
「別に」
むすっとして答える。この言い草、レパードははじめからイユたちの険悪さを知っていてわざと同行させたのだ。
「わかっていたなら、行かせないでよ」
「あいつも同じセーレの一員だ。あいつなんてまだいい方さ。思ったことをすぐに口にだす質だしな」
何となくレパードが誰のことを言っているのか予測がついた。そう、ヴァーナーはなんだかんだ言いつつも面と向かってイユに本音を伝えた。それだけでイユは動揺している。だというのに、ラダをはじめ、内心は信用していないのに、それを表には出さない者もいるのだ。むしろ、イユが知らないだけでそちらの方が多いかもしれない。
「強引だったのは認めるわ」
イユを追い出したいなら実力行使でといったのは、イユ自身だ。それが嫌なら船を下りると反論したレンドのような者もいたが、実際、セーレを出るという決断ができない者もいるだろう。例えば、セーレがもう故郷と言えるような状況になっている者たち。彼らに、イユはどこまで勝手な人間に映っていたのだろうか。
「おまけに、インセートにつく前にひと悶着あったせいで、うやむやになったしな」
暗示の件で補足された。それもあると思う。あれから何日もたっているが、それでもわだかまりが消えない者もいるだろう。
「ここにいたいなら、あいつらとのわだかまりもなくしておけよ」
「え?」
思わず、レパードの顔をまじまじと見てしまった。今、あり得ない言葉をありえない人物から聞いた。これがリュイスならまだしも、レパードはそんな風に賛成してくれる側だったか。
「急に、どうして……」
レパードは帽子を深くかぶりなおした。
「本当はどこかに放り出したいんだがな。お前は意外と問題も起こさず真面目に働いているようだし、覚悟も見たからな」
覚悟と言われてぴんとこなかったが、後で気づいた。ブライトに記憶を見せた件について言っている。今のイユにはぴんとこないが、当時のイユには一大決心だった。それならば、その努力は実ったと言ってよい。
とうとう認めてくれたのか。口元が緩んだ。
「気持ち悪い顔するな」
「失礼よ!」
ただ。とレパードは話をかえる。
「お前はさ、覚えているか?最初、どこに行きたいって俺が訊いたときのことを」
まだ烙印のことがばれていない時の話だ。
「お前は言ったんだよ。安全なところに行きたいってな」
今、イユが行きたいのはシェイレスタだ。だから、そんなことを言われても、遠い昔のことのように、そうだったなぐらいにしか思えない。
「セーレは、安全とは言えない。インセートに住むならまだましだったかもしれないが」
イユは首を横に振った。
「インセートだって、『異能者』は狩られていたわ」
そうだなと、レパードは認めた。
「だが、セーレよりは安全だ。何せこの船には『龍族』が二人も乗っていて、セーレのことをイクシウスも他の国も狙っているんだからな」
敢えてそんなことを言うのだ。本当に危険なのだとは思う。だが、イユの答えは決まっている。
「関係ないわ。私はシェイレスタに行く。そして、それまではセーレに乗っていきたい」
レパードは複雑そうな顔をした。どこまで本当なのか疑う様子なのが気に障る。
「どうしてそんな顔をするのよ」
「いや……」
本人には言えなかったのだろう。どこまでが暗示でどこまでが自分の意志なのかなんて、暗示から解放されたと思い込んでいる本人には。
「それよりも」
イユは話を変えた。今のやり取りで気分がだいぶ晴れていた。おかげで聞く決心がついてしまった。
「レパードはリーサとヴァーナーのことをどの程度知っているの」
イユは手短にヴァーナーに言われたことをレパードに説明する。
レパードは難しい顔をして首を横に振った。
「俺が知っているのは、あいつの家族を助けられなかったことだ」
その言葉に、レパードもまた無関係ではないのだと気づかされた。
「リーサは、家族を失ったの?」
「あぁ、どっかの誰かの力不足でな」
言い切った様子に、イユは救いを求めてリュイスを見た。
リュイスは僅かに首を横に振っていた。この話をレパードに振るべきではないと、言われている気がした。
「分かったわ。折角来てもらって悪いけれど、私もう少し船内を回りたいの。部屋には夕食後に戻ることにするわ」
レパードも、敢えてか「そうか、わかった」とだけ答えた。
レパード自身も、触れてほしい話題ではないのだろう。そう察したイユは、レパードの姿が見えなくなるまで見送った。
「リュイス、この話題はあなたに振っていい話?」
レパードがいなくなったのを確認してから、イユはリュイスに聞いた。十二年前の出来事というのは、リーサだけではなく大勢の船員に影響を与えているだろうことが分かった今、リュイスもまた例外ではないと考えたからだ。
当のリュイスは眦を下げて答える。
「当時のリーサのことはうろ覚えなので、僕以外の人に聞いた方がいいと思います」
おかしいなとイユは思った。リュイスも初期員ならば十二年前からリーサたちとずっと一緒にいたはずなのだ。
それをうろ覚えという。話したくなくて遠回しに言っているのかと思ったが、リュイスの様子からどうもそうではないような気がした。
「それなら、リーサに聞きに行くべきかしら」
イユは知らねばならないと思った。リーサの過去を掘り返すのはどうかと思うが、ヴァーナーとの関係を修復するためのとっかかりは、知ることから始まる。どうしてリーサが人形のようになってしまったのか。そこを知らない限り、ヴァーナーを信用させる手段が見つからない気がした。
「いえ、それはちょっと」
考えたそぶりをみせてから、リュイスが提案した。
「レッサに聞いてみましょう。同じ学年なので一番詳しいと思います」




