その13 『洞窟の魔物たち』
「イユさん、聞こえましたか」
切羽詰まったリュイスの声。
耳に意識を持っていく。暫くすると、水の音が聞こえた。何も不思議はない。周囲は水だらけで、ついさきほど落ちたばかりだ。それに、雫が地面に向かって落ちる音ならば、何度も聞いてきている。そう考えてから、音の響きがおかしいことに気づいた。水の音だ。それは間違いない。しかしこれは上から下に水滴が落ちる音というよりは、水を叩くような音なのだ。
はっとして、水面へ目を凝らす。炎の明かりに照らされた水面が揺れている。大きな波紋を描くようにイユたちに向かって流れてくる。
そこに、何か黒いものが浮いている。つるつるした質感を思わせる表面だ。それが水の奥深くへと潜っていく。
間違いなく、何かがいる。
「魔物ですか?」
イユの隣へとリュイスが座る。何か見つけたことがわかったらしい。鞘を手にし、いつでも動けるように身構えている。
「わからない。でも水の中に間違いなく、いたわ」
ただの魚だったらいいのにと願う一方で、あのようなつるつるした質感の魚がいるわけがないと考える。まず、魔物の可能性が高いだろう。魔物は、ただの魚より遥かに危険な存在だ。否、危険だから魔物と呼ばれるようになった。汽車の中で会った鼠を思い出す。もしあれが魔物になったら、パンくずの代わりに人の肉を欲するはずだ。
目を凝らしていると、日の光に反射してつるつるの質感が再び見えた。先ほどより少し手前の位置だ。水面すれすれのところにいる。そして、またすぐに見失う。
じれったい。そう思ったら、今度はすぐに現れた。
つるつるの表面が、より大きく見える。
「あ、見えました!」
リュイスが声を上げる。しかし、何かはわからなかったようだ。それ以上、何も言わない。
そいつは奥深くへと潜っていき、そしてまた現れた。
はっきりとその表面を捉えたイユは、それが尾ひれだと気づく。
「近づいてきている?」
尾ひれだと捉えられるぐらいには。
それからまたすぐに尾が見えなくなり、今度は……
「逃げるわよ!」
確信した。間違いなく近づいてきている。
イユは立ち上がると走り出した。
あれは絶対に大きい。尾ひれだけ大きい魚だったらいいが恐らくそうはいかないだろう。
リュイスも慌てた様子でついてくる。
火の魔法石は赤々と燃えたままなので、置きっぱなしだ。
道が凸凹で進みにくいが、直感が急げと言っている。屈み、飛び越えを繰り返したところで、気になって振り返った。
すぐ後ろにリュイスがいるのを捉えたと同時に盛大な水の音が辺りに木霊するのを聞く。水しぶきが今いるここまで飛んできた。
そして、そいつが現れた。
全身真っ黒な大きな魚、いや魔物だ。尾びれなどそいつの体の三分の一もなかった。そもそも先ほど見えていた部分も尾びれの半分もなかった。
あれでは、イユなど一呑みだ。そう確信を持って言える。
予想以上の大きさを持ったそれは先ほどイユたちがいたところに向かって飛んでいく。地面に突進した。
洞窟内が一瞬にして暗闇に支配され、地面にぶつかる音が響き渡る。
イユは異能で視力を調整する。魔物が地面に半身をこすらせ、ひれを使いながら水面へと戻っていくのを捉えた。逃げろと心のどこかが訴えていたが、衝撃のあまり体が動かなかった。
そして、魔物が全身を水の中に潜めるのを確認し、堰を切ったように感情が溢れ出た。それが恐怖だと認識したときには既に、イユは戸惑っているリュイスを引っ張りながら走り出していた。逃げることしか頭になかったのだ。
気づいたときには息が切れていた。リュイスも無理に引っ張られて体の至る所をぶつけたらしい。服が破れている。
「もう、追ってきていませんか」
「えぇ。大丈夫……みたいだわ」
魔物は、追ってこなかった。
「なんだっていうのよ、もう」
洞窟内にあれほど大きな魔物がいるとは思わなかった。もう二度とお目にかかりたくない。
息を整え、あたりを見回す。
あの魔物の生息地である水は周りにはなかった。代わりにごつごつとした岩が無数に並んでいる。天井も遥か遠くで不気味な凸凹を繰り返している。
先ほどまでは屈みながら進んでいたこともあったのだ。この高さなら頭をぶつけることもない。
リュイスを引っ張りながら、岩を乗り越え慎重に進む。できれば早く、この洞窟を出たかったのだ。あのような魔物のいるところで、ゆっくりと休んでなどいられないと考えていた。勿論引き返すという手もあったが、先ほどの魔物がいる場所に戻るというのは御免蒙りたい。
ひとまず、出口があるということに賭けて、進んでいく。洞窟は段々下り坂になってきた。なだらかな下りのため、足を滑らせて真っ逆さまという心配はない。
何度目かの岩を乗り越えたところでリュイスが呟いた。
「気配がしませんか」
今度は何だというのだろう。仮にそれが本当だとしても気づきたくないというものだ。
心の中で憂鬱な気分を必死に振り払ったイユは、耳や目を研ぎ澄ます。目はこの先も続く岩たちの羅列を捉えただけだ。岩陰に何かが隠れているかもしれないが、少なくとも今は確認できない。耳は、残念ながら音を拾った。
岩を伝う水の音がその静寂を乱し、そして僅かな高い音が届いた。
「何の音?」
更に耳を研ぎ澄ませると、こすれるような音が響く。その音の出処が分かって、はっとした。
「上だわ!」
しかし、見上げただけでは何もわからなかった。目を凝らす。このこすれるような音は何かがいる合図だ。そして高い音ときた。まるで、何かの鳴き声のようである。
「なっ」
気が付いてしまって、体が固まった。
「どうしました?」
緊張した様子でリュイスが尋ねてくるが、それに答えられず、呆然と上を見ていた。今見ているこれは嘘だと言いたくなった。
しかし、気づいてしまったら、もうそうとしか思えない。不気味な凸凹の天井が動いているなんてことが、この世にはあるのだ。
「に、逃げましょう?」
掠れた声で呟いた。あれは、そう……、
「蝙蝠の群れよ」
ただの蝙蝠一匹なら、よい。
しかし、天井を隙間残らず覆い尽くし、まるで天井そのものになったかのようにぶらさがっているのだ。
気持ち悪い。
何より、数が多すぎた。しかも蝙蝠たちは天井と同じ色をしていた。だから今まで全く気付かなかったのだ。
羽の擦り合わせる音と、鳴き声を拾いながらイユは慎重に進んだ。上の住人たちの気に障るようなことをしたら、一斉に刃向ってくるかもしれない。数が多いのだ。しかも、足場も最悪ときている。もしあの蝙蝠たちの好物が人間の肉だとしたら、異能者と龍族の二人でも無事では済まない。
「イユさん!」
鬼気迫るリュイスの声を聞くより先に、イユは飛び掛かってきた何かを蹴り飛ばした。
上空の蝙蝠たちではない。それは下から来たのだ。丸い塊のように見えた。
飛ばされた何かが悲鳴を上げて、岩へと叩きつけられる。色は鼠がかった黒だ。イユの顔より大きいか否かといった大きさの毛むくじゃらである。
「鼠?」
見た目は丸々と太った毛だらけの鼠だ。毛が多すぎて耳すらも隠れている。
しかしそいつはただの鼠よりもずっと鋭い爪のある脚を見せて、くたばっている。
それに気をとられてばかりはいられない。
立て続けに別の方向から鼠が走ってくる気配を察知する。イユの顔面まで飛び掛かってきたそいつを手で振り落した。この鼠は団体行動がお好きのようだ。
飛ばされた鼠がまた悲鳴を上げ、その音を聞いた天井の蝙蝠たちの羽音が激しくなる。
存在を隠していない。
そう感じた。今まではまるで天井のようにぶらさがっていただけだったのが、突如として何匹かが降下してくる。
「伏せて!」
リュイスに警告だけして、イユは蹴りを入れた。
リュイスが伏せたその場所まで急降下してきた蝙蝠数匹が、蹴りを受けてまとめて吹き飛ばされる。そのまま天井へぶつかり、そこにいた何匹かが犠牲になった。
「まずいわ」
数匹倒しただけでは、蝙蝠の数はまだまだ減っているように見えない。むしろ今はっきりと眼下にいる人物が敵であることを知らしめてしまった。しがみついていただけの蝙蝠たちが一斉に飛び立つのを見てしまう。間違いなくイユたちに向かって降下してくる。
蝙蝠を見ている間に、リュイスの動く気配がした。
悲鳴が立て続けに聞こえる。
見ると、リュイスが剣を抜いている。近くで鼠が倒れている。さすがに魔物には慈悲を与えないらしい。
「あんた、見えてないんじゃなかったの?」
リュイスを引っ張りながら走り出す。
岩陰に隠れていたらしい、鼠たちが次から次へと襲ってくる。
それを全てはじきとばしながら、リュイスの言葉を耳にする。
「気配で、どうにか……」
気配だけで剣を抜いているらしい。相変わらず、目茶苦茶だ。折角なら、後方から迫ってくる蝙蝠の群れも気配で蹴散らしてくれると大変有難い。そう思っていたら、剣を引き抜く気配がした。上空に向かって剣を振る音に続き、悲鳴が聞こえ、どさっと何かが落ちる音がする。
大変有難がることとしよう。
だが、剣の一太刀だけで防ぎきれる量ではない。敵は下にも上にもいるのだ。食らいついてくる鼠を必死に振り落とす。
「邪魔!」
鼠を払った手に数匹の蝙蝠たちがくっついてきていた。上着ごしに刺さる感触を感じる。痛覚を制御しているため痛みは感じないが、噛まれていることぐらいは分かる。リュイスを引っ張る手もずいぶんと重たい。
「ちょっと、魔法かなにかでどうにかならないの!」
「無理です! 強力な魔法はそれなりに時間をかけないと……」
リュイスも太刀を振り回している。きっと簡単な魔法なら既に何発も放っている。蝙蝠全部を吹き飛ばすほどの威力の魔法を使うにはかなりの集中力が必要なはずだ。
「せめて、明かりがあれば……」
泣き言を聞いたのは初めてかもしれない。リュイスは転ばないようについていくだけでも精一杯なのだろう。何せ下は平らな地面ではない。全く見えないわけではないにせよ、蝙蝠たちをなぎ払いながら進んでいるだけでも神業だ。イユなら、悔しいができない。これ以上期待するのは、お門違いだろう。
だが、この現状を続けていたら、間違いなく死ぬ。たとえばリュイスが躓いて地面に顔をつけたが最後、一斉に蝙蝠が飛びかかった重みに、動けなくなるだろう。そうでなくとも、既に体が重たいのだ。
現状を打開すべく、何か手はないか模索する。その間にも、上着にべっとりと蝙蝠がへばりついていく。
「火の魔法石は……」
言いかけて、断念する。魔法石を持っている本人が、泣き言を言うのだ。まだ残っているかどうかも分からないし、仮に残っていたとしても、リュイスに魔法石を出す余裕はないだろう。他の手を探すしかない。
だが、易々と良い手が転がっているようには思えない。
絶望が心に圧し掛かったそのとき、前方が明るいことに気がついた。右なりにカーブを描いているため、洞窟の先がどうなっているのかは分からない。しかしひょっとすると、この明るさには、期待してもよいかもしれない。
「外?」
自然と足に力が入った。
せめて明かりがあればと、リュイスは言った。
外に出られれば、明るいし、地面も凸凹でないはずだ。何かしら対処ができるだろう。そう、外にさえ出ることができれば解決策はあるのだ。
走ってくる鼠を蹴り飛ばして、イユは速度を上げた。リュイスもどうにかついてくる気配がする。
体は相変わらず重い。足にも無数の蝙蝠たちがしがみつき牙を突き立てているのがわかる。それを、速度を上げることで弾き飛ばし、もがくように進む。
出口が、近い。淡白い光が出迎えている。
光までは、あと少しだ。
リュイスの腕を掴んでいた手が、ずっしりと重くなった。それを無理やりに引っ張り、走る。カーブにならって前へと進もうとし――――、
「そんなっ!」
驚愕した。
そこは出口ではなかった。
止まろうとして、しかし勢いがつきすぎてしまっていた。止まらずに、足が、何もない地面へと飛び出す。体が投げ出され、淡白い光に包まれた空間へと向かって、落ちていく。
次の瞬間全身に、水が押し寄せた。




