その117 『帰宅』
「それで、ようやく帰ったのか」
「そう。やっとね」
レパードの言葉にクルトが頷く。レパードにサーカスでの出来事について説明を一通り終えたところだ。説明役は主にリュイスとクルトの二人が務めた。気を遣ったのかイユの家族の話には触れず、代わりにラヴェンナやシーゼリアに重きを置いた説明になっている。
どのようなお小言を言われるのかとイユはレパードを窺う。何か言われても反論してやろうと身構えた。
レパードは帽子を抑えるように頭を掻きながら、
「まぁ、全員無事で良かった。……もう、無茶はするなよ」
と、述べた。
そこからはただただ心配の感情だけが覗いていて、イユは正直なところ、少し反省した。
全く懲りていなかったのはクルトだ。これだけは聞きたかったとレパードに食いつく。
「それで、ラヴェンナっていう人とはどういう関係?」
気になるのはクルトだけではない。全員の顔にそう書いてあった。
「別に。お前たちが気にすることじゃない」
その言い草は余計に興味をひいてしまう。
「何々? すっごく美人だったじゃん。まさか元カノ?」
レパードは何も答えなかった。
どこか不機嫌そうに見えるその顔は、しかし否定しないのだとも思う。
「……え、まさか本当に?」
一行の気持ちを代表してクルトが言えば、
「……こっちも、一通りの説明は終わった」
と露骨にレパードは話を変えに掛かった。
ブーイングはでたが、押し通すつもりらしい。クルトの声には見向きもせず、レパードは続ける。
イユたちがサーカスに行っている間に、セーレの船員に事情を説明するという話だった。イユとしてはそちらの結果も見過ごせない。これでシェイレスタに行くか行かないかがはっきりと決まるのだ。
固唾を呑むイユに、レパードは一瞥する。
「ひとまず、全員でシェイレスタを目指すことは決定した。マドンナの依頼だからな」
安堵のため息をつくと、何故か皆から複雑そうな顔を向けられる。不可解なことであった。
「だが、すぐには発たない。まずはイニシアで別れたギルド員との合流もあるし、セーレがインセートを……、つまりギルドの管轄を外れたら、イクシウスがやってくるとみている」
イユもイクシウスについて考えていなかったわけではない。スズランの島で撒けたことが大きいのだろうが、今まで音沙汰がないのは運が良かったとしか言えない。
「偵察船を放っているぐらいだ。すぐに出立することも相手は視野に入れているだろうからな。焦らせるだけ焦らす」
レパードの案は、イユには納得できるものだった。
逆にクルトは口を挟む。
「でもさ。ここにいる間にイクシウス政府が襲ってくる可能性もあるんじゃないの? そりゃここで問題を起こすとギルドとの関係が拗れる心配があるって話は分かるよ。だから表立ってはしてこないかもだけどさ、こそっとなら幾らでもできそうじゃん」
現に襲われたばかりなので、クルトの言い分にも説得力がある。
「ああ。だからここにいても危険なことには変わりないだろう。狙いが船から個人に変わるぐらいか?」
それぐらいは想定内だと言いたいらしい。
「それじゃわざと遅くする意味ないじゃん。むしろイクシウスに準備期間を与えるんじゃないの?」
納得いかないとクルト。
「いえ。インセート周辺でイクシウスの戦艦を用意するには限りがあります。準備と言っても限度があるかと」
リュイスがその考えを否定してみせた。イユはよく知らないが、大国のイクシウスがシェイレスタとの争いに手を焼くくらいだ。インセートにイクシウスの戦艦を派遣することは中々難しいのかもしれない。
「何十隻も追いかけてくることにはならないということね」
口に出してから言わなければよかったと後悔した。一隻の白船に追いかけられ追いつかれた苦い記憶が口の中で蘇る。忘れていたかった、あの鎌使いの女まで頭の片隅に出てきてしまった。
「実はな。あいつらが混乱したときを見計らって出ようと思っている」
レパードが案を打ち明けた。
「混乱?」
「する予定があるんだと」
その話を聞く限り、又聞きのようだ。信用できるのだろうかと疑いたくなる。
「それはいつなの?」
と、リーサ。
「わからん」
「ちょっと!」
あまりに頼りない返事に、イユは思わず声をあげてしまう。
「不明だが、近々起きそうだというのは事実だ。だから準備は怠るな。……お前も船の仕事ぐらい覚えろよ」
と言われる。
「起こったらわかるの?」
この質問はクルトだ。
「わかる。間違いなく連中に動きがでるからな」
自信のある口調からよほど信頼のできる情報筋なのだとは気づいた。
「とにかく」
とレパード。
「お前たちは今日のところは休め。今何時か知っているか?」
サーカスが終わってから今までずっと話し込んでいたのだ。時計の針は二時を回っていた。このメンバーの朝は早いので、ここまで遅いのは珍しい部類だろう。意識した途端、眠気が襲ってくるのだから不思議なものだ。
「船長の言う通りね。まずは休みましょう」
リーサの言葉にイユは頷いた。一行は、解散することにした。
部屋に戻ると、疲れが一気に襲ってきた。ベッドにもぐりこむ前にと、イユは鞄から絵本を取り出す。折角買ってもらったものだ。文字は読めないが、少しだけでも見ておきたかった。
『蛙にされた王子と魔法』。タイトルと思われる表紙の文字をなぞって読む。どれが『蛙』でどれが『王子』という字なのかも分からないから、推測しかできない。というのに、胸の奥が熱くなる。
ふいに、暖炉の火の爆ぜるぱちぱちという音が聞こえた気がした。
「そうだったわ」
イユは唐突に思い出す。夕焼けのような長い髪が暖炉の明かりに照らされて、美しかったことを。そう、この話を読み聞かせてくれたのは、母だった。
「私……、覚えているのね」
かすかだが、確かにそのときの記憶があった。今までは思い出す機会もなかった。仮に施設にいるときにこのことを思い出してしまえば、逆に辛かったかもしれない。現実との違いに打ちしがれたはずだ。とはいえ当たり前のことだが、イユにも家族がいたのだ。その事実がイユの胸を優しく締めつける。
――――その家族が、魔術師……?
どうしても繋がらない。異能者施設の魔術師たちと同一には思えなかったし、思いたくもなかった。
「もっと思い出せば、わかるのかしら」
正直なところ、思い出すのが怖かった。むしろ思い出せなくてもよいのではないのかと思う。『生きる』という暗示がかけられていたとブライトから聞いている。それが確かなら、その思い出はイユにとって生きるのに邪魔なものだったのではないかと想像してしまう。意図的に忘れ去ったそれを思い出す必要はないだろう。
――――そもそも、その暗示は一体誰がかけたのだろう。
そう思ったときに目に入るのが『蛙にされた王子と魔法』だった。ぺらりとページをめくってみる。優しそうな王子がお城で楽しそうにしている絵が描かれていた。
――――考えていても埒は明かない。
絵本をしまいベッドに飛び込むと、途端にイユの意識は深い眠りへと落ちて行った。




