その114 『ハインベルタ家』
――――『ハインベルタ家』。
その名に、そして声音に聞き覚えがあった。はっとして、女を凝視する。ヴェールの下の薄桃色の瞳を、イユは過去にみたことがあるのだ。
「まさか……」
思わず出た言葉に反応したのか、女の視線がイユに向けられる。
知らず、イユは後ずさりした。
――――まさか……、そうした偶然があるものだろうか。
同じ既視感を元魔術師も覚えていたらしい。次の一言にイユの心臓は凍る。
「あなた……、施設に? いえ、まさかね」
同時に確信してしまった。間違いなく、シーゼリアは、異能者施設にいた。イユの記憶を覗くのが本日の実験だと言いながら、赤い髪と黄金色の瞳の男と一緒に、笑いながらイユを見ていたあのときの女だ。
あれから何年が過ぎたかもイユにはわからない。ただ当時から互いに姿も様子もだいぶ変わっているのは確かだ。
にもかかわらず、当時の恐怖が、女を覚えている。あの時の女で間違いないと、恐れが視界を揺らしてくる。
記憶を見られる決意をしたその後に、まさか過去に記憶を読んだ当事者の一人に出会うなんて思ってもいない。それに、イユが魔術師に決定的な恐怖を覚えたのはあのときなのである。全く予想外の不意打ちに、体が震えるのを抑えられない。
――――ばれるわよ。
震えが止まるよう、自分に言い聞かせ続ける。同時に暗い気持ちで、イユは心の中だけでシーゼリアに返した。
――――何が『過去に襲われる』よ。
考えないよう、意識しようとした。考えれば、どうしてもあの時の底知れない無力感がイユを喰らいにやってくる。気を抜くと、その場に崩れてしまいそうだ。
――――あんた自身が思いっきり、私の過去として襲ってきているくせに。
シーゼリアは、イユの様子に何か思うところがあったらしい。ゆっくりと体を起こした。その腕から一筋の血が垂れる。不吉な予言を的中させてきた占い師はにったりと笑みを浮かべた。心の底から凍らすような不気味な表情だった。
「そう。『あなた』なのね?」
どうしてか怯えた体は異能を使ってもなかなか言うことを聞いてくれない。
「今まで気づかなかったのが嘘みたい。まさか、『ハインベルタ家』の娘があろうことか、こんなところにいるなんて」
それが自分のことを指しているということにすら気づかなかった。イユは女から発せられる異様な狂気に耐えられず、小さく悲鳴を上げた。
その様子をみて、はじめてリュイスが、リーサが、イユの異常に気付く。
「これは、天の恩恵だわ……!」
一体どこにそのような力を隠し持っていたのだろう。いつの間にかナイフを手に持った女が、イユに一目散に向かってくる。ラヴェンナの威嚇射撃にも、元より撃たれる覚悟なのだろう――――、臆する様子は全く見えない。
イユは全く動けずにいた。
女の赤い唇が、迫ってくる。そこから覗く綺麗に揃った白い歯が、イユを塵も残さず食らいつくそうとしているように見えた。
「イユ!」
リーサの声が響き、イユの目の前から女が消える。
代わりにイユは誰かに抱き留められていた。
カキンと、ナイフがはじく音が響く。
――――え……?
気づけば、リーサが泣きそうな顔をしてイユを揺さぶっていた。
「イユ、平気……? イユってば」
そのリーサの後ろで、リュイスが剣を抜いていた。シーゼリアのナイフをはじいたのだろう。
床にナイフが突き刺さっている。
シーゼリア自身はラヴェンナの銃で足を撃たれたのか、ひざまずいていた。
現状に気づいて、イユは慌てた。
「リーサの馬鹿! あなた、戦えないのに!」
リーサがイユをかばってどうするのだと言いたくなる。リュイスがいなければ今ごろナイフに刺されていたのだろうと分かったから、余計に真っ青になった。
「馬鹿って……! イユが何だかおかしかったから心配したんじゃない!」
負けじとリーサに言い返される。
それには、最もだと納得するよりない。あの瞬間、イユは恐怖でろくに何も考えられていなかった。一人であの女に会っていたのなら死んでいただろうとまで思う。
「ごめんなさい……。でも、やっぱり馬鹿だと思うわ」
なぜならば、リーサは。
「こんな真っ青な顔で震えながら私の前に立ったって、何にもならないわよ」
涙さえ浮かべているのだ。
「ふふ……」
シーゼリアの笑い声に、イユははっとした。
「あの子をかばってもあなたには何の得もない。それがわからないの?」
自信がありありと感じられる言葉に、イユは怖気づきそうになる。
けれど、シーゼリアの視線の先にいるのは、イユではなくてその間に割って入ったリュイスだ。
「あなた、龍族でしょう?」
余裕のある口調が、リュイスを動揺させようとしているのが分かった。止めたかったが、イユが何かいうより早くシーゼリアは告げるのだ。
「あなたが嫌いな魔術師の娘なのよ。あの子は」
ハインベルタ家。そう、シーゼリアは言った。
「あの子の父親は、異能者施設の施設長なのだから!」
その言葉に誰よりも動揺したのはイユだった。
「嘘よ……! そんなはず……」
否定の言葉は、シーゼリアによってかき消される。
「誤魔化そうとしても無駄よ! あいつは何もかも私から奪った! あいつが私たちにしたこと、全て償わせてやる……!」
シーゼリアの怒りは紛れもなく本物だった。少なくともハインベルタ家に恨みをもっていて、イユをその家の一人だと思っているのは事実だとしか思えない怨嗟だった。
そしてイユはその家の名に聞き覚えがあったのだ。
だが、もう一つの事実がイユにその現実を否定させる。他でもないイユ自身が異能者として施設にいたということだ。そして、その事実から顔もろくに覚えていない親に言いたくなった言葉。
――――もしそれが本当なら、何故一度も会いに来てくれなかったの……?
心の中の問いは何度も木霊するばかりで、決して期待した答えが返ってくることはない。
ぎゅっと手を握られて、リーサの手の温度を感じた。思わず握り返す。
リーサの瞳が心配そうに揺れている。そこに映る自分がとても小さく見えた。
「イユの家族がどうだろうと関係ありません。イユはイユです」
リュイスの迷いの欠片もない言葉に、泣きそうになる。分かっていたが、リュイスはやはりリュイスだ。
「愚かね……!」
シーゼリアが言い放つが、
「そうは思いません」
きっぱりと否定している。
シーゼリア自身には戦う力が残っていないのだろう。悔しそうな声でリュイスに訴え始めた。
「どうしてわからないの? ようやく探した復讐相手が目の前にいる、私の気持ちを考えてもみなさいよ!」
そんなにも殺したいのかと、イユは戦慄する。
階段の上でこつんと音がして振り仰げば、ラヴェンナの複雑そうな瞳と目が合う。何か思うところがあったのだろう。だがその理由は今のイユには分からなかったし、恐怖でいっぱいいっぱいの頭では考える余裕もなかった。
一方で、リュイスはただ黙っていた。復讐は何も生まないだとか、そういった普段のリュイスが言いそうなことも何も言わなかった。
先に口を開いたのは占い師だった。
「……あなたはこの女のせいで命を落とすかもしれないわよ?」
それは新たな予言のようにも聞こえた。
「そうは思いません。僕が命を落とすのは、僕が未熟な故でしょう」
リュイスは全く譲らなかった。
一片の迷いも感じさせないその態度にシーゼリアもとうとう諦めたようだ。
「殺しなさいな」
そして、あろうことかリュイスに言うのだ。
「お友達を殺そうとした仇でしょう?」
察するにシーゼリアは生きることすらどうでもよくなったのだ。魔術師に戻ることも、復讐をすることもできないと知って。
リュイスは首を横に振った。
「それでは永遠にわかり合えません」
いつか魔術師ともわかり合うつもりがあるかのような言葉だった。あまりにも突拍子のないことだが、リュイス程のお人よしならあり得るとも感じる。それを一笑に付すことは今のイユにはできない。ブライトを知って、イユも自分自身が魔術師にこだわりすぎだと言うことには気が付いていたからだ。
だが同時に、思うのである。この植え付けられた恐怖はどうしても消せないものだと。
むしろ以前よりひどくなったとさえ感じていた。本当ならばシーゼリアが襲ってきても一人で凌げるぐらいはできたはずだと自身を叱る。いくら怖くても、それぐらいできる人間だと思いあがっていた。まさか、命の危機に瀕しても尚、まったく体が言うことを聞かないとは思わなかったのだ。
異能者施設から離れたことで、恐怖は収まるどころかより膨らんでいた。その膨らんだ恐怖のせいなのだろうか。それとも……。
イユはもう一つの可能性に思い当たる。それは疑惑だった。他でもない、暗示を解いてしまったせいで、イユの体は思い通りに動かなくなってしまったのではないのかという。




