その11 『張り合い』
女が駆け込んでいった森に入る気にはなれなかった。リュイスの提案もあり、急ぎ足で砂浜を進んでいく。砂浜には身を隠す場所が存在しないため、あまりのんびりしていると、救助を終えた女に再び襲われるかもしれない。そうした不安に駆られ、復活したばかりの異能を駆使して痛みや疲れを鈍らせる。
「ねぇ、どうして私の居場所がわかったの」
気を紛らわすため質問もした。何より失態を見せたばかりである。沈黙のなか淡々と歩き続けるのも気まずい。
「僕が倒れていたのは飛行船のすぐ近くで……」
森の中を歩いてイユを探していたと言う。その途中で、誰かが切ったとしか思えない木々を見つけたらしい。当時はイユの可能性があるかもしれないと思い、その跡をたどって歩いていたそうだ。今にして思えば鎌で切った跡だったとリュイスは振り返る。
「そうしたら、声が聞こえたのです」
恐らくは「どっちも、いやよ!」と叫んだときのことだろう。その声がなければ慎重に進んでいたと言われ、イユは背筋が寒くなった。虚勢を張っていなければ、リュイスの助けは遅れ、今頃ここにこうして立っていることはなかったのだ。
「僕も聞いていいですか」
「なによ」
「名前。教えてしまってよかったのですか」
何のことかと思いきや、あの女に伝えた名前についてだった。
「イユさんがこの国の人間なら、家族や友人について簡単に調べられるはずです」
はたから見れば、確かに危険な行為だろう。どうせ調べたところで何もでてこないというのはイユしか知らないことだ。仮にでてきたとしたら、よほど念入りに調べたのだろうと感心してやってもよい。
「大丈夫よ。家族も友人も、もういないから」
彼らとはとうの昔に縁が切れている。全員が全員死んだわけではないだろうが、その後を知らない。
ところが勘違いされた。気に障ったことを言ってしまったと思ったらしく、気まずそうな顔をされる。
「そういうあんたは、何。レパードと兄弟だったりするの?」
あの毛むくじゃらと細身の少年が兄弟だったら天と地がひっくり返る。そう思いつつわざと聞いたのは、リュイスにも家族はいないだろうと予想したからだ。
気まずそうな顔をされたところで、異能者や龍族である以上境遇は殆ど変わらない。お互い様だ。
「いえ。僕にももう家族は……いないので」
ただ、と少年は続ける。
「レパードとは家族以上に付き合いが長いです」
「ふぅーん。どれくらいよ?」
気になったので聞いてみる。
「えっと……」
指を折りながら数えているリュイスからは、家族がいなくなったことに対する悲しみなど微塵も感じられない。人の優しい人間だからその手のことは引きずりそうだが、吹っ切れている様子を見るに、それだけの時間が流れたということなのかもしれない。
「もう、十二年になります」
「今、いくつよ」
その時間の長さに、ついつい訊ねていた。
「十八です」
ということは、六歳からレパードと一緒にいるのだ。それは確かにずいぶん長い付き合いだなと感心する。
「それにしては、あっさりとおいていったわね……」
飛行船のことを思い出して呟いた。レパードは船に戻ろうとはしていたし、イユと一緒に残ることを選んだのはリュイスだ。レパード自身に非はないのかもしれないが、結果としてリュイスがここにいるという事実がそう言わせてしまう。
「多分、僕らを探しているはずです」
その口ぶりに、ついリュイスの顔を覗き込む。親が子を見るような顔つきをしている。レパードとリュイス、どちらが年上だかそのときだけわからなくなった。
「ああ見えて、とても心配性なんです」
何故だろう。返した声が図らずも上擦った。
「そうは思えないけれど?」
誤魔化すようにリュイスより前へと進む。そこで、イユの足が止まった。
「長くいればわかりますよ」
その呟きはイユの耳には届かなかった。異能の力を使って見えたものに思考を奪われていたからだ。
「ねぇ」
異能を使ってもぎりぎりといったところ。砂浜に点在する岩と岩の狭間。かろうじて、それが見えた。
「この先、洞窟があるみたいよ?」
洞窟は、一見すると小さかった。人一人分の隙間が岩間から顔を覗かせている。
近寄ってみるが、暗いために中の様子が見えない。よく見ようと、顔を近づける。冷気が肌に触れ、水の音が耳に届いた。
「入れそうですか?」
「水の音はするけれど……」
判断が難しい。安全なのかどうか、どこまで続いているのかどうかが、見当がつかない。危ない橋は渡りたくないが、このまま砂浜を歩いていても身を隠す場所がどこにもないため、そのうち見つかってしまうだろう。それならば、この洞窟に入ってやりすごすのも手だ。
「少し、入ってみる?」
入口の隙間は二人ならばかろうじて入ることができそうだ。頷くリュイスを確認すると、イユは体を隙間に押し込んだ。大してつっかえることもなく、すっと中に入ると目を凝らして周りを見渡す。
全体的に暗いが、目が慣れてくるのを待つ必要はイユにはない。視力を調整すると、そこが思った以上にだだっ広い場所だということに気付いた。
地面は見渡す先まで続いており、時折水に沈んでいる場所がある。澄んでいるので底の様子がはっきりと見えた。
一方で、天井は場所により差はあるものの基本的には高く、ところどころに鍾乳石がぶら下がっている。物によっては地面に届かんばかりに伸びているものもあるが、少数だ。多少屈む必要はあるものの、這いずって進むほどではなさそうに思える。
そして、洞窟の壁がしっとりと濡れていることまで確認すると、イユは振り返る。
「大丈夫そうよ」
声を聞いてリュイスが入ってくる。リュイスも小柄だがイユほどではない。つっかえながらも何とか入り込む。それから洞窟内の様子を観察して驚いた顔をする。
「広いですね」
狭い場所を乗り越えた反動もあるのだろう、思わずといった様子で感想を漏らした。
「えぇ。しかも、続いているみたいよ」
イユは首だけで示す。洞窟は水に沈む場所を除いても、奥へ奥へと道が開けていた。進む価値はありそうだ。
「慎重に行きましょう」
進めるだけ進んで出口があればよし。なければ、休む場所が確保できたということでよしとする。これほど暗い洞窟の中にまで、あの女は入ってこられないだろう。
認識が甘かったと気づいたのは、入口の暗さよりも一段深くなった頃のことだった。あの女と同じように暗さに順応できない人間は、他にもいたのだ。
「そこ、岩あるから」
注意をしつつ、リュイスの手を引っ張った。
どうやら龍族の目は異能を使ったイユの目ほど優れていないらしい。進みが明らかに遅くなったと思ったらようやく白状したのだ。
「上から岩が出っ張っているから。屈んで」
とはいえ、普通の人間よりも夜目は効くらしい。それに気配には鋭いようで、イユの注意よりも先にイユが屈んだ気配を察知して行動することもある。
しかし、一々注意しながら歩くのは面倒だ。段々と苛々してくる。
「なんで、先に言わなかったのよ」
愚痴ると、謝罪が返ってきた。
「すみません」
肩を竦め小さくなっているリュイスを見ると、どこからどうみても頼りなく見える。この様子なのにイユはリュイスに何度か命を救われたのだ。飛行船に乗るとき、白船が墜落したとき、そして砂浜で女に襲われたときと。
先ほどの女のことを思い出し、寒気がした。危うく、殺されるところだったのだ。死にかけたことは何度もあるが、そのときはいつも異能で身を守っていた。異能が役に立たなかったとしても、全く使えなかったことはまずなかった。無力になった自身が如何に弱いか自覚すると同時に、二度と出会いたくないと願う。
「いつまで続くのでしょうか……」
心細そうな声が洞窟内に響いた。
「さぁね」
ふと、リュイスは、今どういう心境なのだろうかと想像する。
イユより気配を素早く察知し、魔法という力を使い、剣を使いながら人は殺さないというお人よしだ。悔しいが、その性格に反してイユよりもずっと生き延びる力を持っている。しかし今の状況では、イユの警告なしには普通に歩くこともままならない。リュイスの世界では、ここは暗闇なのだ。暗闇の中をずっと進むのは、どういう気持ちなのだろう。
ふと、試したくなった。大丈夫、少しの間だけだと自身に言い聞かせる。
すぐに視界が暗闇に閉ざされる。足は先ほどから止めていない。しかし見えなくなった途端、足を踏み出すのに抵抗を感じた。
この先は平らな地面だったはずだ。慎重に進む必要はない。後ろにいるリュイスに不思議がられないようにしなくてはいけない。
そう自身に言い聞かせてから、それではリュイスの立場と同じでないと思った。
リュイスはこの先に平らな地面があることも知らないのだ。知らない場所までいかなくては、張り合えない。
何故張り合おうとしているのか。どうして同じ立場でないとだめなのか。そのときは全く疑問に思わなかった。
ただ、知らない場所に行こうとして歩を早める。少し逸っていたのは、実は早く暗闇から逃れたかったからなのかもしれない。リュイスと同じ立場に立たなければ、異能を使ってはいけないと勝手にハードルを決めていた。
暗闇には、無力さに通ずる恐怖があった。それを認めたくなかったのかもしれない。どういうわけか、そのときのイユの中では、リュイスと同じ立場に立って何ともなければ勝ったことになったのだ。
しかし、進んだ先に地面がある保証はない。急いていたせいですっかり確認を怠ったイユは踏み出した足がずぼっと嵌る感覚を感じた。
上げかけた悲鳴を呑みこんだのは、同じ立場に立とうとしたことをばらしたくないというわけのわからないイユの思いがあったからだ。しかしその思いは異能の使用も阻み続けた。何が起こっているのかわからないまま、冷たい水の感触がブーツごしに足へと伝う。どうにか踏み留まろうとして、できなかった。
気づいたら盛大な音を立てて、水の中に飛び込む始末になった。




