その108 『占い師が囁く』
「次の方、どうぞ」
ようやく占い師の館へ通される。黒縁の花が中心に描かれた幕をくぐって真っ先に目に入ったのは大きな水晶玉だった。
その手前で一行を待っていたのは、顔をヴェールで隠した白装束の女だ。赤い唇が隙間から覗いている。白装束のうえに白い肌をしているせいか、一際その唇が目についた。
「こんにちは。あなたがシーゼリアさんですか?」
リーサの質問に口の端がゆっくりと持ち上がる。
「その名前で呼ぶということは、前の仕事の関係者でしょうか」
静かな落ち着いた声がその口から発せられる。
「魔術師が前の仕事というのならば」
リーサの返しに、女は頷く。そして、一行を見回した。その視線はイユで止まる。
「それで、お嬢さんを診てあげればいいのかしら? 元魔術師として」
「私のことを……?」
一瞥しただけで、この中で一番診なくてはいけないのが誰なのかわかったのだ。この魔術師の腕は確かなのだろう。
「随分魔術師に好かれていますもの」
女は、そう言って微笑んでみせる。どこか余裕のあるその声音にイユは背筋が寒くなるのを感じた。確かに力量は信じていいかもしれない。しかし、女自体を信じるかどうかは話が別だと、警戒心を強くする。
「言っておくけど、妙なことをしたら」
女の態度に同じことを感じたのだろう、クルトが言った。
「わかっています。どちらにせよ。折角のお客様ですもの」
さわやかに笑う女。
「座りなさい」
と言われ、イユは諦めた。ここにいるのは、少女三人とひ弱にしかみえない少年一人だ。脅すにはこのメンツではどう考えても力不足だ。異能を見せるという手もあるが、無用にひけらかすのもどうかと思う。
女はイユの前の水晶玉をのぞき込みながら告げる。
「結構な魔術をかけられているようですね」
「わかるのですか?」
と、リュイス。
見ただけでは暗示がかかっているかどうかはわからない。それがブライトの言っていた話だったはずだ。いや、ブライトは嘘をついてはいない。嘘だとしても何か理由があったはずだと、イユは自分に言い聞かせる。
「わかりますわ。強力な魔術の流れを感じますもの。けれど、それが何かまでは私にはわかりません」
暗示のことまではわからないと聞いて、イユはほっとした。ブライトの言っていたことは嘘ではなかった。
「暗示にかかっているんです。あなたの力で解くことはできませんか」
本当のところ、解かなくてもよいのにと思った。だが、口には出さなかった。どうせ解けないだろうという思いもなかったかといえば嘘になる。
案の定、占い師は言う。
「優秀な魔術師の魔術とお見受けしました。私の力では……、とてもとても」
やはりブライトは魔術師として別格なのだ。
「そう……」
落胆の色を隠せない様子のリーサ。
「しかし、あなた。気を付けたほうがいいですよ」
はっとした。水晶玉の色が先ほどより濁ってみえたからだ。そこに映る女の赤い唇が、歪んで見えた。
「私には視えます。あなたを囲む複雑な因果。呪い。そして、死」
並べられる言葉が不穏だった。ごくりと息を呑む。
「これは何かしら? 冷たくて、暗い……」
女は暫くして、納得のいったという顔をした。
「そう、これは『過去』」
女の唇が、囁いた。
「あなたは『過去に襲われる』」
その言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。過去と言われて浮かんだのは、異能者施設のことだった。意識した途端、手足が震えた。落ち着けとイユは必死に自分の手足に命じる。
女はわざとなのか、さらに畳みかけた。
「過去はあなたを追い詰める。振り払っても、振りほどいても、あなたを捕える」
いつか見た夢を思い出した。影たちがイユを追いかけてきた夢のことをだ。何度も振り払っても、自分が自分でなくなるような感覚が消せなかった。なくなったと思っていたそれが、舞い戻ってきた気がした。顔が蒼白になっていたことはばれていただろう。
それにもかかわらず女は、
「殺されてしまわないようにね」
と、あくまでも穏やかな口調でイユの心を突き刺した。
「そんな言い方……」
リュイスの非難の言葉も耳に入らなかった。
烙印を消したのは、ほんの数日前のことだ。それでようやく過去のしがらみたる烙印を消せたと思ったのに、この女は何を言い出すのだ。
そうした考えばかりが頭のなかをぐるぐると回る。
「事実ですよ。この運命からは逃れることはできない」
イユの頭に冷たい牢が浮かんだ。そこから手を差し伸べる無数の女たちの生気のない顔。わずかなパンを取り合う、もはや獣の奪い合いとしか言えないあの光景が。
思わず拳と目をぎゅっと閉じた。イユはもう、あそこには戻りたくないのだ。
「……これ以上、こりごりよ」
知らず、立ち上がっていた。
「イユ?」
そのまま踵を返して悠然と帰ればまだよかった。
だがそこに
「いけません」
と女は畳みかけるのだ。
「逃げても追いかけてきます。あなたを殺しにやってくる。あなたに罪を認めさせようと」
「聞きたくないわ、そんな話……!」
思わず、イユは遮った。もうたくさんだ。全て拭い去ったと思ったのに、最悪なことを聞いた。
「追いかけてこないで……!」
気づけば、走ってその場から逃げ出していた。イユの足はあっという間に館を出て、知らない場所に赴く。
――――なにやっているのかしら、私。
冷静になってからようやく周りを見回して、リュイスたちがいないのを確認する。それもそのはずだ。イユは全力ではないにしろ異能の力で走っていたのだから。
――――単独行動は禁止って言われたのに。
動揺した。想像以上に、響いたのだ。あの元魔術師が、イユに精神的苦痛を与えるために言ったものだとしたらものの見事にやられている。
だが、これまで記憶までさらけ出して、暗示も解いた。ようやくこれで異能者施設から本当の意味で解放されたと、喜びを噛み締めたところだった。それが、過去はまだ襲ってくると聞いて、まだ足りないのだと思わされたのである。
セーレにいて、インセートで知らない場所を回って、やりたいことを思うままにやらせてもらった。そのせいで、忘れたつもりになっていただけだったのかもしれない。魔術師は、イユが少しばかり逃げただけではどうにもならない程、もっと恐ろしい存在なのだ。
「ブライト……」
イユの脳裏に、ブライトが浮かぶ。魔術師と思えば複雑だが、何故かブライトならば、必要な答えを知っている気がしたのだ。
だからといって、ブライトなら何ていうのだろうと考えてしまうのは、縋っているだけかもしれない。我ながらどうにかしている自覚もあり、それが暗示によるものだとも分かっていた。けれど、イユには縋りたい心をどうにもできない。
それに、脳裏に浮かんだブライトは、ただにこっと笑うだけで何も言わなかった。
だから、分からない。自問を続けても、全く答えは見えてこない。まるで暗闇の中に一人置いてけぼりにされたかのようだ。その中に落とされた一筋の糸を見つけて手繰り寄せて、ようやく暗示の問題を解決したと思ったのにだ。出口と思われた糸の端、そこにあった扉を開けると、その先にもただただ暗闇が広がっていた。それが今のイユの心情だ。
――――あとは何をすればいいっていうのよ!
溜まっていた感情の塊を心の中でぶちまけた、そのときだ。
『きて』
それに答えるように突如響いてきた声に、イユははっとする。
「誰?」
見回すが、どこから聞こえた声なのかわからない。周囲には人だり。喧噪の中で、すっとイユの頭の中に入ってきたあの声は一体何なのだろうと、一人一人を探るように見て探す。
『おねがい……、たすけて』
再び響いた言葉は、直接頭の中に届いた感じがした。これは喧噪の中の一つの声ではないのだと、気づいた。それならば、イユも同じように相手に伝えようと、頭の中だけで念じてみる。ばかばかしいとは思ったが、言葉の内容は『たすけて』と伝えていた。どこか切迫した思いに答えようと、まずは思いついたことをやってみることにした。
――――誰……? どこにいるの?
遠くで、観客の歓声があがった。
いつの間にかサーカスが始まろうとしているらしい。開始時刻前だから余興だろうか、会場が盛り上がっているようだ。まだ席についていなかった周囲の観客たちが、慌てたように会場へと入っていく。
『わたしはここ』
答えが返った。伝わったのかと驚くと同時に、頭がずきりと痛む。異能で調整しようとしたが、どういうわけだか思うとおりにいかなかった。
――――ここ……?
名を名乗らない声の導きに従って、ふらふらと舞台裏らしき場所へと進んでいく。途中誰もイユを引き留めなかったが、それすらも既に気にならなくなっていた。
声は定期的にイユを導く。声の感じからすると、子供のものらしい。
――――子供。
イユの頭の中に、あの時の映像がチラついた。
「違う」
考えない。考えてはいけない。イユは必死に自身に言い聞かせた。まさに今、過去にとらわれてはならない。
『きて』
声がイユを急かす。心なしか、声を聞けば聞くほど頭痛がひどくなる気がする。
――――行ってやるから、黙っていなさい。
ぴしゃりと言い放つと、イユは更に奥へと進んでいく。




