その1007 『絶望二叩キ落トス方法』
正直、気が紛れるのはかなり有り難いことであった。目を伏せると、先ほど連行されていったエルドナの顔が浮かぶのだ。複雑な感情を全て無視して物事に取り組めるのはとても良い現実逃避になった。
訪問者もそこまで来なかった。数人からの話で、ワイズが何者かに襲われただの今は勉学のため他国を周遊中だの聞けたが、詳細は掴めずじまいだ。前者は心配になったが、幸い無事ではいるらしい。
「犯人があたしの派閥の関係者なら、何かできると良いんだけど」
そう呟いたところで、タタラーナが残した用紙に視線を落とす。
彼女は言ったのだ。遺したいものを遺せと。それは何も魔術の知識だけに限らない。
書き綴ったら、処刑の日などあっという間に来てしまった。どこか達成感さえ持って、その日を迎えたブライトはお淑やかな足音に気がつく。
「ちゃんと己の本分は果たしたようですわね」
予想通り、そこにはタタラーナの姿があった。
「託して良いかな? 破かない?」
警戒を持って聞くと、タタラーナが呆れた顔をした。
「あなたを絶望に落とす目的ならそれもありでしょうが、その方法は別にありましてよ」
そう言いながらタタラーナはブライトが渡した書類を確認していく。
「死を待つだけの人間を絶望に落とす意味はない気もするけども」
「ふっ、甘いですこと。そう、あなた、エルドナに生きるよう切望されたのでしたよね?」
意外なことを質問されて、ブライトは戸惑う。
「うん。そうだけど、それが?」
「あの女は人の心を操るあまりに心の機微に敏感なのですわね。それで、敢えてそういう発言をする傾向があると言えますわ」
ブライトは何を言われているのか改めて考え直す時間をとられた。タタラーナに限ってという思いが、最初に来るからだ。
「もしかして、エルドナの言うことを気にするなって言ってくれている?」
タタラーナはそれに答えなかった。ブライトの書類を読むのに忙しかったからだ。
暫くしてから、タタラーナは口を開く。
「まぁ仕事は果たしたと見ましょう。あなたの派閥の残党についても、これで収まるとは思えませんが多少は良くなるでしょうから」
タタラーナの言及は、ブライトの協力者に、ワイズへの協力は惜しむなと綴った手紙についてだ。
「こんな牢の中で書いてるから正式文書というわけにはいかないけどね」
ゼロよりは良いはずだ。そう願うしかない。
「確実なのはあなたが直接口出しすることでしょう」
「さすがに処刑されたらそれもできないし」
無意味なことを聞くなと思いながら、タタラーナを見上げると、彼女の唇が上機嫌そうに持ち上がっていた。
「さて、私の魔術を見せる約束でしたわね」
正直、本当に見せてもらえるとは思っていなかった。だから、自身の杖を取り出して地面に法陣を描き始めるタタラーナに驚いてしまう。しかもその法陣はブライトにはまるで、分からないものであった。
「全く見たことない類のだね」
魔術書をどれほどかき集めようとも、世界は広い。ダンタリオンに限らず、多くの魔術をブライトは未だ知らない。膨大な知識を前に、寿命という刻限がブライトに迫っていると思うと、ただ口惜しかった。
「これは、記憶に関する魔術ですわ」
魔術が解読できずとも、タタラーナが使う魔術自体には察しが付いている。
「未来を詠む占星術がタタラーナの魔術でないなら、タタラーナが使う魔術は王立図書館に使われていたもう一つの魔術のはずだよね」
全く無関係な第三者が登場するとは思えなかったのは、タタラーナがそれだけの実権を王立図書館に持っているからだ。
そうでなければ、王家が隠した秘密の通路のある部屋など、占有できまい。
「そう。秘密の通路に立ち入った者にかける必要があったのですが、同時に何もなかったことにするには、魔術の痕跡自体を残さないようにする必要がありました。だからこそ、習得したのですわ」
タタラーナの手元で法陣が光る。完成したのだ。それが、ブライトの前でぱちぱちと光って、あっと叫びたくなった。
「私の魔術は言うならば、『痴呆』ってところでしょうか」
あまりに意外な言葉に、ブライトは戸惑う。
「ち、『痴呆』?」
疑問を口にしたけれど、その言葉の意味は理解しつつあった。ぼやけていた視界が晴れ渡る感覚が確かにあるのだ。
「ただの物忘れに、痕跡なんて残らないでしょう? 私の魔術は、ただ忘れやすくなるだけ。それだけで、あの図書館の秘密を守るには十分なのですわ」
そう、ブライトはただ単に忘れていただけなのだ。だから、戦争さえ回避できれば世界は安泰などと考えていた。記憶が、確かに忘れていた一節が、蘇る。
――――『アルテシャ暦1911年、『深淵』より出でし破滅、人類滅亡の兆し』
たった二年で世界は滅びの道を辿る。否、今はもう二年も残されていない。
それなのに、ブライトはこの大事な一節を忘れていた。だから、弟たちに託して満足し、自身の人生を終わせようとしていた。
「……なるほど。これはあたしを絶望に落とす最大の方法だね」
ブライトは今日この時をもって処刑される身だ。それで良いと思っていた。今はもうそうは思えない。
しかしながら、ブライトにはもう打つ手がない。大人しく未練がましく、死ぬ道しか残っていない。
「恨むよ、タタラーナ・ココリコ」
そう言われたタタラーナは、さぞ嬉しそうに笑みを返すのであった。




