その1004 『ハイエナ』
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ワイズに魔術を掛け己のしたことを自覚し、地下水路で逃げたときのことだ。
「結局、自分のことばっかり、か」
ミドを探していたヒューイのことを思い浮かべながら、ブライトは自身を振り返ったことがある。
「あたし、どうしたいんだっけ」
やりたいことはある。それを実行するために、頑張ってきてはいる。けれど、いつの間にか見失っていたのも事実だ。
「あたしは、お母様を助けたい」
だから、改めて口にして、立ち上がった。そうやって決意を口にしないと、自分が壊れてしまいそうだったからだ。
加えて、最後にぽつりと呟いた。母に聞こえるように、わざとだ。
「あたしの心よりもずっと大切な、やりたいこと。――――を、…………」
――――お母様を苦しめた原因を、捕まえて引き摺り出したい。
あのときの幸せを取り返すことができないならばせめてと、そう汚れた手を見つめて誓った。
心が魔術で侵されようと、その決意だけは手放さないと決めた。何度も心折れかけたが、その都度助けてくれる周りがいたのだ。
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「ねぇ、エルドナ」
目の前の美女は、ベルガモットと同じくらいの年のはずだ。そうは見えないあどけなさが、ブライトには不気味に映った。
「あなたは、お母様に何をさせたの?」
聞かなくても分かっていた。
何故ならエルドナだけなのだ。彼女だけが、父が亡くなったその日、母に会いに来た。あの時のことだけは、いつも後悔する。あの日だけはやり直したくて仕方ない。エルドナの顔など、見せるべきではなかったと。
エルドナはにっこりと笑った。その幼さの残る笑顔のままで、ブライトの心にナイフを突きつけた。
「ベルガモット様にとって大事な人であるヘイゼル様を、自ら手掛けていただきました」
もしここに杖があったら、きっと投げつけていた。今だから、分かるのだ。父は母が父のことを嫌っているかのように思っていた。子供心に、母の気持ちが伝わっていないことが辛かった。
けれど、そうではなかった。正確には、確かに母の思いを父は受け入れることはなかったのだろう。だが、父は母に愛されていることは知っていたはずだ。それが、覆った瞬間がある。
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「お前は私を」
病床の折に、ゴホゴホと父がむせながら、苦しそうに告げた言葉だ。
「無理をしないで、あなた」
という母の言葉を無視して、父はそれでも、どうにか言葉を紡ごうと口を開いた。
「私のことを、本当……は、き」
掠れて殆ど声になっていなかった。それに、あのときのブライトには受け付けなかった言葉でもあった。けれど、何度もフラッシュバックする記憶のなか、唇の動きをたどればわかってしまう。
――――私のことを本当は嫌っているのだろう。
父は確かにそう言った。
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エルドナの発言から察するに、父は病死ではなかった。エルドナに操られた母は常に、病床の父に付き添っていた。その母に魔石病に近い症状と思わせる毒でも与えられ、じわじわと殺されることになったのだろう。父はそれを悟っていた。だから、父は母が自身を嫌っているのだと解釈したのだ。
全身が震えた。それだけことをしておいて、のうのうと母が心配だとそう言って、あの日部屋に訪れたエルドナが許せなかった。
「おっしゃるとおり、私は『異能者』です。だから、お茶会で普段から会える関係ならいつでも力を発揮できます。鳥にもなれるので窓さえあればいつでも部屋に入れます。だから、私はいつも重宝されているんです」
誰に重宝されるのかと聞く前に、エルドナの発言は続いた。
「でも、私の力の効き目って弱いんです。少しずつしか効果がありません。だから、相手の心を上手く利用して、効き目を強くさせる必要があります。ほら、ブライト様も経験はありませんか? 人の心に干渉する魔術を使うときって、その人にとってとても大事なものを壊されるでしょう?」
勿論、覚えはあった。ほかでもないブライトはイユに大事なペンダントを壊させた。
「だから、ベルガモット様に異能を使ってはいて、訃報もちゃんと聞いてはいたのに、まだ少し不安だったんです。そこで、ちゃんと結果を見に行って力も使わないといけないとって思いました。そう、あの日はちょうど、まだ小さかったブライト様にお声掛けしました。あのときのブライト様はとても毅然とされていて、本当にご立派でしたよね」
紡ぎ続けられる言葉に、耐えられなくなった。見ていられなくていつの間にか伏せた視線の先、血がにじんだ拳が映り込んでいる。
「……ふざけないでよ」
こんな低い声が自分にも出せるのだと、初めて意識した。全身が熱くて仕方がなかった。
「よくそんな思ってもないことを言えるよね? お母様を傷付けておいて、あたしが立派? 本当はどうでもいいくせに!」
声を荒げるブライトに、エルドナの声が降りかかる。
「勘違いしないでください。私は、ベルガモット様もブライト様のことも尊敬しているんです。だって、どちらもとても素敵な方だから」
発言が要領を得ない。そう思って顔を上げたときだった。その笑みを張り付けたままで、エルドナは続けた。
「だから私、もっと輝いて欲しかったんです。そのためには、もっと苦しんでもらわないといけないって思いました」
理解が――、本当に、一切の理解が――、できなかった。
「だって、人は苦しんでいるときが一番輝くんですよ」
怒りに燃えていたはずの自身が、目の前の理解できない者の前に、戸惑いを抱いた。ありえないものが、今目の前にいた。
…………コレハ果タシテ人間ナノダロウカ?
『異能者』のイユを前にしても、『龍族』のリュイスたちを前にしても沸かなかった疑問が、そこにあった。
人の心を踏みにじる災厄が、ブライトの人生を踏み砕いて粉々にしていったようにしか感じられずにいる。ブライトのことをアイリオールの魔女と呼ぶものがいたが、目の前の存在に比べたらずっと可愛らしいものだ。真の魔女とは、こういう存在をいうのだろうと思わずにはいられなかった。




