その1001 『思イ上ガリ』
現実は、どこまでも残酷だ。
水の滴る音がずっとブライトの耳に残っている。砂漠のどこかでこの水を求める誰かがいるのに、水は意味もなく誰もいない場所に滴る。
――――なんて不公平なんだろう。
どうせ死ぬ覚悟はできていた。それなのに、死はほかの者に与えられた。ようやく自分の番が来たのだと思うと同時に、あまりの無力さに顔が歪む。亡くなってしまったセラ。母の裏切り。潰えてしまった式神という名の希望。全てがごちゃごちゃになって、ブライトにのしかかってくる。時間はあったのに、それらへの心の整理が全く追いつかない。
「わかっているだろうが」
と苦い顔をしたエドワードがやってくる。想像のエドワードとは違い、実際のエドワードはやつれていた。だからこそ、申し訳なさがあった。
「そなたは世界的な指名手配犯となっている。もはや、言い逃れはできない」
「はい」
返事が軽すぎたのか、エドワードの眉間に皺が寄った。
「なんで、あんな手紙を送ったのだ」
やりきれない声に、今となってはブライトも何も言いたくなかった。
「あの計画を書かれたから、乗るしかなくなった。『ダンタリオンを閲覧し、その知識を国事に生かせ。今後懸念される戦争の種を摘み取れ。その際、手段は問わない』などという馬鹿げた手紙を書く羽目になった。羅針盤を添えて送った余の気持ちがわかるか?」
羅針盤と言われて思い返す。ダンタリオンで本の魔物に襲われたときに、真っ二つに割られ、消えていったそれを。
「羅針盤については紛失してしまい、申し訳ございません」
「そんなもの、どうでもいい!」
エドワードの叫びに似た怒鳴り声は思いのほか牢屋内に響き渡った。厄介払いをされていた門番が驚いて戻って来たほどだ。それを追い払ってから、エドワードが続ける。
「……それに、もう最期だというのなら、その敬語もやめろ。それよりも、自ら首に縄をかける行為をする愚か者に問いただしたいのだ。なんであんな計画を立てたのだと」
敬語をやめろと言われて、抵抗はなかった。ブライトのなかで既にエドワードは信頼に足る存在になっていたからかもしれない。
「……あたしは、ただ得意になってただけなんだよ」
ただ、暗い気持ちで返さないといけないことが、申し訳なかった。
「得意だと?」
「できると思っていたんだ。だって、あたしは天才魔術師だから」
――――けれど、実際には。
呟こうとして、代わりに謝罪の言葉が溢れた。
「ごめんね。本当にごめん」
「待て。何を謝っている?」
エドワードに囁くように、ブライトは殆ど口のみを動かしてこう呟いた。
「あたしには、あの魔術は習得できなかったよ」
――――いつから、すべての魔術を使いこなせるなどと思い上がっていたのだろう。
ダンタリオンの魔術書は、かなり高度なのだ。それをブライトならば読み解けると勝手にそう甘く見積もっていた。自身が死ぬことになるならば、解説書をつけようとまで考えていた。
だから、ブライトは自身がそれをできると思い込んだ結果、セラと交代しなかった。
魔術が使いこなせないなら、セラと交代した意味がない。それ以外なら、セラのほうがむしろもっと上手くやっただろう。
「何のために、あたしは……」
だからせめて、この話を内密にしないといけないのだ。魔術を発動できないならば、せめて発動されるかもしれないという懸念を相手に抱かせる必要がある。
「話は分かった」
「……エドワード国王?」
「エドでいい。ワイズも余をそう呼ぶ」
そう呼んでいたことは、実は知っていた。だからブライトも頭の中ではエドワード国王ではなくエドと親しみをこめて呼んでいた。
「エド」
それだけエドとワイズの二人が仲良くなっていることは、個人的には喜ばしいことであった。いなくなるブライトには、二人の今後を祈る以外にないのだから。
「お母様はどうなるの?」
「善処はしている」
エドワードは難しい顔をしていた。実際、克望と文通をしていたというのだから、シェパングとつながりがあることは確実になったわけである。ブライトの存在も踏まえて考えれば、厳しい立場に置かれていることは間違いない。
「……残念ながら、処刑は予定通りに行われる。それまで、関係者は通す。せめてもの、最後の別れを告げるが良い」
あくまでエドワードはエドワードだった。口を一文字に引き結び、涙を見せずくるりと背を向けた。それで、エドワードに辛すぎることを背負わせてしまったという自覚が沸いた。
「ワイズには手紙を送ったと聞いている。それで最後で良いのか?」
背中を向けたまま聞いてくるエドワードに、ブライトは答える。
「うん。不出来な姉のためにごめんって伝えておいてくれれば更に嬉しいかな」
「そんな言葉は、胸の中にしまっておけ」
拒否されてしまった。それを残念に思いながら、ブライトはただ去っていくエドワードを見送る。それぐらいしか、自分にはできなかった。




