その10 『窮地』
気が付くと、そこに船はなかった。
鳥の鳴き声が聞こえて、目を開ける。日に照らされた体が火照っているのを感じた。
「私、生きている……?」
自身にそう問いかける。今日だけで、死にかけたのは何度目だろう。
異能を使わないといけないものの動くことはできそうだと判断すると、イユはそっと身体を起こした。服についた砂が流れ落ちる。
目の前には、砂浜が広がっていた。白い砂がきらきらと輝いて眩しい。更にその先には海が見えた。マリンブルーの澄んだ青色が砂の白と対比しており鮮やかだ。うっすらと浮かび上がる波の間を縫って、銀色に光る小魚が飛び跳ねる。
今見えている海が永遠に続いているわけではないことを、イユは知っている。海の上には、小さな島が浮いていた。そこから水が、今ある海に向かって垂れ流れている。目の前に映る海も同じことだ。小島から見える海と同じように途切れ、溢れた水は次なる大地に向かって流れ落ちている。
「奈落の海、じゃない」
つまりここは、飛行石で浮いた島のどこか一つだ。
助かったと思った。この島に落ちておらず、他の島にも落ちていなければその先に待っているのは海だ。それは目の前にあるような穏やかな海とは違う。全てを呑みこむ、奈落の海である。だから、途中の島に飛行船が墜ちたことはこの上ない幸運だ。
そこまで考えて、『飛行船』という言葉が引っ掛かった。
「リュイス……?」
本当なら空を飛べばよかったというのにわざわざ同じ道を選んだあの少年の姿がない。
きょろきょろと見回してみるが、海は勿論のこと、砂浜にも誰もいない。立ち上がって、砂を払う。髪にまで砂がついてしまっており、鬱陶しさを感じる。まるで砂が生きてイユの身体にしがみついているかのようだった。やっとのことで払った後、反対側の様子を見るべく振り仰いだイユの目に飛び込んできたのは、鮮やかな深緑色だった。
砂浜が途切れ、十数段の階段を登るかどうかの高さの崖がある。そこから溢れんばかりに木々が茂っていた。その深緑色が目に眩しいのだ。
イユの知る木は、どれもこれほど鮮やかな葉などつけなかった。幹も生気のない色で枝は総じて細く、少なくともこれほどしっかりとした太さにはならない。そしてもっと刺々しくいつも雪が積もっているものだった。これは、森なのだろうか。
小さな海を含め、これらの光景を初めて見た。綺麗だと思う心の余裕はない。むしろ初めての地に一人という不安が大きかった。
「飛行船はどこかしら。ずっとしがみついていたと思っていたけれど……」
恐らくは途中で手を放してしまったのだろう。飛行船を見つけてもリュイスには会えないかもしれないが、何か知っているものに出会いたかった。
これからどうすべきなのだろうとイユは思考を巡らせる。
砂浜も崖も森も見渡す限りずっと続いている。だがここは間違いなく一つの島だ。こうやって砂浜をたどっていけば島の大きさぐらいは予測がつくかもしれない。或いは、崖を登って森に入るのも手の一つだ。上手くいけば食べ物に困らずに過ごせるかもしれない。
そうした自分の考えに、笑いが込み上げる。我ながら、あまりに暢気な発想だ。もしここがレイヴィートのあった島のように大きな場所だったらどうするのか。下手にさ迷って無駄に体力を消費するのは得策ではない。それに、イユは森の過ごし方を知っているわけではない。特にイユの知る森とこことは見た目からして全く違うのだ。生きていける自信はなかった。
途方に暮れるイユの耳に届いたのは、誰かの足音だった。異能を使って聞こうとしていたわけではなかった。だから思った以上にその音は近くで聞こえていたことになる。
「リュイス?」
つい、声に出す。どこから聞こえたのかと耳を聳てようとするまでもなく、声が聞こえた。
「最初に会うのがお前だとはな」
はっとした。森の中から一番会いたくない人物の姿が現れる。
「それは私のセリフよ」
ご丁寧に鎌もきちんと手に持っていた。
「よく無事だったわね」
「おかげさまでな」
女は崖の上まで歩くと、足を止める。崖と言ってもそもそもそんなに高さがあるわけではない。下りたところで怪我一つされないだろう。
飛び降りる姿を確認するまでもなく、イユは脱兎のごとく逃げ出した。異能を使えなくする力を持つ相手に一人で敵うはずがないのだ。
だが走っていた次の瞬間、目の前が真っ暗になり意識が遠のく。気づいたとき、イユの体は再び砂の中にあった。
「そう逃げようとするな」
逃げたくなるに決まっている。もがこうとするが、やはり体が鉛になってしまったかのようだ。むしろ飛行船から投げ出されただろう痛みも加わって、悪化してさえいる。
「部下たちへの借りがある」
女の声音はどこか怒りに満ちていた。飛行船を墜とした原因はイユにある。飛行船には兵士たちが乗っていた。リュイスが殺さないように頑張っていたがあの状態で墜落してしまっては、果たして何人無事なのだろうか。
司令官であるその女がゆっくりと近づいてくる。
イユには彼女が死神のように感じた。ちょうど素晴らしい鎌をもっているときている。
砂浜に女の影が映る。足音が止んだ。糸を垂らすように下ろされた鎌が、イユの目の前で止まっている。
「一応私の職務だ。聞こう」
息を呑む。それだけの動作にすら、痛みが走る。心臓がバクバクいっていた。目の前に自分の死がいるのだ。猫に睨まれた鼠のような気分だった。しかもその鼠は鼠取りに足を挟まれてしまって逃げ場がないのだ。
「異能者施設に行くかここで死ぬか、どちらを選ぶ?」
イユの目の前に恐怖が広がった。その言葉を聞いた途端、言葉の意味が意味として形を成さなくなった。全身を貫く衝撃が喉をつぶしにかかる。何と戦っているのだろう。声を出そうと必死にそれと戦う。その攻防が終わらない。
「答えられないなら、私が選ぶぞ?」
鎌がイユの視界から少し遠ざかる。それは振り下ろす為の予備動作のように思われた。
にもかかわらず、動けない体もしぼんでしまった声もその言葉自体も、全てがイユを殺すためにあった。
このままこうして死ぬつもりなのかと、自身に問いかける。死にたくないと、心が答えた。ましてや、このようなところで恐怖に押しつぶされて死ぬなんて、惨めすぎるというものだ。
せめてと、声を振り絞る。
「……よ」
呟いた声は嘆かわしくなるほど掠れていた。
「?」
女の鎌はぴたっと止まった状態だ。
声を出そうとして、空気を求める。虚勢でしかないそれですらここまで辛いものなのかと、問いかけたくなった。
「どっちも、いやよ!」
その声が思った以上に大きく響いた。
だが、その言葉と同時に目から雫がこぼれて、情けなさに絶望する。自身の弱さに居たたまれない。これでは、虚勢すら張り切れいない。せめて嗚咽だけは漏らさないように、堪えた。
女の鎌は暫く止まったままだった。その時間の長さが気になったところで、鎌が頭上から消える。
身体が一気に震え上がった。鎌が振り上げられ、そのままイユの首へと振り下ろされる瞬間を感じるようだった。
ところが、それは意外にも背中にきた。
「っつ……!」
痛みに声を上げかけ、堪える。ちょうど撃たれた位置だったから痛みは走ったが、耐えられたことが何よりの証だった。鎌で斬られたのではなく、女に蹴られたのだ。
痛みの反動で、体が仰け反る。同時に頭上に風を感じて、その仰け反りに大きく体を委ねた。ほぼ反射だった。先ほどまでいた場所を鎌が抉る気配がする。
切っ掛けを掴んだことで、思った以上に体が動くことに気づいたイユは、思いっきり身体を動かす。鎌が再び地面から離れる気配を感じつつ、必死に転がり続ける。そうしたところで、痛みに耐えられなくなり、手のひらで砂を押しのけ身体を止めた。
振り返り、女と多少の距離が取れたことを目視で確認する。それだけのことで、恐怖が少し和らいだ。恐怖と痛み。どちらが人の体を縛るのだろう。視界がぼやけ遠のきを繰り返しているが、そのおかげでどうにか足を叩き起こすことに成功する。
「どっちも嫌か」
女が呟いた。
「えぇ」
返した声が掠れていて声になっていなかった。
「ならば、やはり私が選ばせてもらおう」
鎌の向きがくるっと変わる。それを見届けたと思ったときには、女が鎌を構えながら駆け寄っている。折角離した距離は一気に零だ。
薙ぎ払うように向けられた鎌を避けようとし、背中から砂に飛び込んだ。勢いで飛び散った砂が口にまで入るが避けることには成功する。
空を薙ぎ払った鎌は向きを変えてイユへと飛び掛かる。
今度は、必死に頭をかがめて手で守った。避けようと考えたわけでもなくほぼ反射的に体が動いただけだ。結果としてすぐ頭上を鎌が通り過ぎたようである。自分の首がまだ繋がっていることに安堵を覚える余裕もなく、ただ心臓がバクバク鳴っているのを感じた。
女は苛つきを覚えたようだった。イユのすぐ目の前に立って鎌を構える。
「死ね」
「嫌よ!」
間髪入れず言い返す。数秒、睨みあいが続いた。
女は鎌を振り上げる。そこまでの女の動きが目で追いきれないほどに早かった。
それで、初めは異能の封じられた人間ということで油断していたのだろうと気づかされる。そうでなければここまで避け続けられたのは奇跡としかいいようがない。
しかし、もう女の動きには容赦がなかった。
女の背丈ほどある鎌が、イユに向かって振り下ろされていく。
死の瞬間を見ていられなくて、思わず目をつぶった。
そのとき、一陣の風が吹いた。剣と鎌が交わる音が響く。
「貴様……!」
「退いてください!」
澄んだ声が女の怒りの声を遮る。
見知った翠色の髪が風になびくのをその目に捉えて、イユはたまらず声を上げた。
「リュイス!」
リュイスも、イユも、生きていた。その事実にイユの視界が滲んだ。
リュイスの剣に押されて女が大きく下がる。そこに、リュイスの声が掛かった。
「あなたにこんなことをしている時間はないはずです」
「なんだと?」
リュイスは首だけで森を示しているようだ。
「あの森の先に、飛行船の残骸を見つけました」
その言葉に女は明らかに動揺した顔をみせる。死神に見えた女とは別人のようでもあった。
「今からいけばまだ間に合うはずです。仲間の救助を優先してあげてください」
女は鎌で剣をはじき、数歩下がる。リュイスの剣はそれを追おうとはしなかった。
「その言葉、本当だな?」
「はい」
構えていた鎌を下ろす。その様子を見て、リュイスの剣もはっきりと下がる。戦意がないことを示しているようだ。
安堵したイユは、女の視線に悲鳴を呑み込んだ。いつしか女がイユを見据えていたのだ。きりっとした目から、有無を言わさない何かを感じる。
「最後に一つ問おう。名は?」
本音を言えば、もう女と会話などせず、逃げ出したかった。震えたまま縮こまることができたならそうしていただろう。けれど、これ以上情けない姿を晒すことはできないという思いが残っていた。せめて視線だけはと、イユも見返して答えきる。
「イユよ」
知るはずのない名前だろう。この名前を知る者は、僅かしかいない。
「覚えておこう。いつか必ずお前を葬る」
そう宣言した女は、時間を惜しむように森へと駆けていった。
リュイスは剣をしまい、振り返る。
「大丈夫ですか」
そうして手を差し伸べる。
その様子を見たイユは、改めてほっとしてしまった。まだ体の震えが止まらない。生きていたことにただただ感謝する。
「あの、泣いているのですか」
心配したような口調で言われてはじめて、自分のひどい状態に気付く。それもそのはずだ。逃げるので必死で砂には飛び込むし、顔まで砂だらけなうえに涙まで流したというありさまである。鏡を見たら卒倒する自信があった。
「違うわよ!」
慌てて目をそらしながら、怒鳴ってしまう。醜態を見られたくはなかったのだ。けれど、手だけはしっかりと借りた。立ち上がれないほどに、衰弱していたからである。
自身に向けられたリュイスの視線には、正直耐えられそうになかった。