その1 『汽車、潜入』
汽笛が聞こえる。
一面の銀景色を黒絵の具が黙々と描いていく。
それらは冷気と溶け合い、混ざって消えた。
鈍いブレーキ音とともに、黒い巨体が停止する。
その隙を見て一人の少女が汽車の中へと潜入した。
何も知らない汽車が大きな音を立てて動き出す。
線路という名の軌跡をたどって――
とある客室に潜り込むことに成功した。
そこに入った途端、大きな窓が少女を迎えていた。外が寒いからだろう。曇った窓の中で、暗闇に溶け込むことのない白くて淡い光が流れていく。窓の下にあるソファが、赤い色で自己主張していた。上から射す光は、精巧な造りをしたランプによるものだ。汽車の揺れに合わせて、右へ左へと忙しい。
少女はさっと後ろの扉を閉めると、ソファに座った。革のソファが僅かに沈む音が漏れ、眉をひそめる。慣れない音が静まったことを確認すると、念のため、肩にさげている鞄からいつでも切符を取り出せるようにしておく。
少女の手ほどもない大きさの、一枚の紙。滑らかな淡黄色は、鳥の子紙ならではの質感と色だ。そこに行き先を記したらしい文字が並び、残った右半分のスペースに、大きな翼を柄から生やした剣が地面に突き立てられている紋章、イクシウスの国章が描かれている。
この切符は本物だった。ここにくる過程で入手したものだ。だが、潜入せざるを得なかった。
トントン……
控えめなノック音が聞こえた。扉の下の隙間から、焦茶色の革靴が垣間見える。
車掌だろうか。
「どうぞ」
人と話したのは何日間ぶりだろう。震える声を精一杯隠しながら、切符を手に持つ。
入ってきたのは、三十代前後の細身の男だった。茶色の革帽子に、白のワイシャツの上に羽織った同じく茶色の上着とズボン、先ほど見えていた靴と合わせて、全てが茶系統に合わせられている。恐らくそれが車掌の制服というものなのだろう。そして、少女が思わず自身のドレスを鞄で隠したくなるほどに、それらはまるで新品のように美しく、それに皺一つなく着こなされている。
男は何かを言おうとして、少女の手に持っているそれに気付く。
「拝見します」
少女から切符を受け取った男は確認をすると、滑らかな所作で返した。
「それではよい旅を」
そう言って、帽子を少し上へと持ち上げ礼をする。他の客室でも散々行っていたのだろう、その仕草は洗練されていて無駄がない。
少女は会釈して、男が出て行くのを見守る。そこで気が付いた。男のズボンからは、奇妙に点滅した白い石が垂れ下がっていることに。
あの石は何なのだろう。男が出て行った後も、ちょっとした不安が頭からこびりついて離れない。
少女は自身の恰好にも自信が持てずにいた。服についた雪は全て払ってある。そうであってもよく見れば、少女の髪色と同じ琥珀色のドレスにほつれがあるのがわかるだろう。それに、上着。偶然にも車掌のものと同じ茶系統のそれは、少女には少し大きいばかりでなく、枝をひっかけたときに作った傷までついているのだ。じっくり観察する時間があれば、この客室に合う恰好でないことがばれてしまう。
余計な考えを振り払うように首を振ると、目を閉じた。耳だけは外に意識を向け、少しでも疲れをとるべく眠りにつこうとする。雪道を延々と走ってきたのだ。疲れないはずがない。そして疲れは、いざというとき、障害になるということをよく知っていた。
幸いにも、それから数刻は何も起こらずにすんだ。
窓から淡い日差しが差し込む時分、客室に近づいてくる幾つかの足音に気付いた。集中し、全身の神経を耳に傾ける。囁き声が聞こえた。
「……間違いないんだな?」
「はい。『反応石』が点滅していました。間違いありません」
「御苦労。あとは我々で始末する。お前は下がっていいぞ」
「はぁ……あの、そんなに危険なのですか、その『異能者』というのは」
少女は、その言葉にはっとなった。
「ああ。危険きわまりない。一般人のお前などあっという間に殺られるぞ」
「報告に、ここまでの同行。非常に感謝する。お前はもらえる報酬の額にでも浮かれているがいい」
「……そこまで言われてしまっては。そうですね。私はこれで失礼します」
足音が一つ減った。
この音の数から察するに、二人か。そう推測すると、すぐに後ろの窓を開けた。冷たい風が少女の白い肌に触れる。帽子に入れ込んであった髪が一糸、風に触れて零れ落ちた。
足音は段々大きくなっていく。
少女は片足を引き寄せた。ソファに、ぐっと沈み込む音が響く。勢いが出すぎるよりもこのほうが良いだろうとの判断だ。
「この部屋だな……」
「ああ……」
足音が止まった。静寂が、扉を挟んだ者たちの間に訪れる。
一、二、三……。
時が三を刻んだところで、扉越しに誰かの息を吐く音が漏れる。そしてそれを合図に、扉が盛大に開かれた。
少女の目は、白銀の鎧を着た兵士姿の人物、兜を被っているために顔は見えないが先ほどまでの囁き声から推測するに男、が長銃を向けているところを捉える。撃たれる前にと、引き寄せた足で思いっきりソファを蹴り飛ばした。勢いで前方へと一気に兵士との距離が縮まる。
兵士が慌てて引き金を引こうとするが、時すでに遅し。
そのときにはもう、宙で体を捻った少女が顔面へと蹴りを叩き込むところだった。
「レスク……!」
兵士の名前だろう。崩れた兵士の後ろにいたもう一人の兵士が叫び声をあげる。
その隙を利用して体を後方に引き、何度か翻しながら窓に近づく。
無事な兵士が銃で応戦すべく構える。だがその照準がなかなか定まらない。少女の動きが速すぎて追えていないのだ。
そうこうするうちに、少女は立ち位置を先ほど座っていたソファの上へと変えている。兵士から視線は反らさず、あらかじめ開けておいた窓から身を投げ出した。手だけはすぐに窓のヘリをつかみ、くるっと体を回転させる。白銀の世界へと飛び出ようとしていた体が一気に、うっすらと白んだ空へと跳び上がる。そしてそのまま汽車の上へ。すかさず着地の態勢をとり、汽車の黒い巨体へと下り立つ。
ふわりと、今の勢いで零れた髪が、外の世界の光に触れて、燃ゆる金糸のようにきらきらと光った。光や影の当たり方で色が淡くも深くも変わる髪だった。ある人物に、刻々と表情を変える夕焼けのようだとたとえられたそれは、少し遅れて少女の肩へと収まった。
時間を惜しむように、少女は揺れる汽車の上を走り出す。汽車の後ろへ、後ろへと。
窓から覗いた兵士のものであろう。銃声がそれを追った。車体に空しく銃弾がぶつかり、はじく音が続けて響く。
銃声が止んだところで、少女は振り返った。
兵士は窓からの射撃では捕えることができないと判断したようだ。這い上がっているところだった。
もう仲間と連絡をとりあった後だろうか。登らずに兵士を優先したほうが良かったかと思ったが、今から後悔しても遅い。急いで兵士のもとに戻ったところで兵士が登りきってしまうのが先だろう。
少女はそう判断すると、兵士のいるその先を真っ直ぐに見据えた。
白銀の世界を照らす日の光。それを遮るように浮かぶ無数の浮遊した島。そして、その手前にそれが見えた。
兵士は上がりきると、汽車の揺れによろめきながらも、射撃が届く範囲へと歩を進める。
少女は時間稼ぎのために一歩後ろへと下がった。そしてもう一歩。
しかしながら、兵士と少女の距離が縮まっていく。
そして、更に一歩下がろうとして後ろに足場がないことに気付いた。線路だけが次から次へと下がっていくようにみえる。
少女は前に向き直った。
勝利を確信し銃を構えている兵士の姿が、少女のもえぎ色の瞳に映る。その背後、迫ってくる光景があと少し足りないと訴えていた。
意を決し、兵士のほうへと一気に駆けた。一般人がだすような速度ではない。『異能者』の力を使った速さだ。兵士が慌てて撃った銃弾を避け、その脇を通り過ぎる。
兵士は、照準を少女から離さないようにと体を捻り、そこで初めて自身のもとにぶつかってくるトンネルの存在に気付いた。さっと屈み込む少女が目に映ったが、もう手遅れだ。
次の瞬間、兵士の目の前は真っ暗になった。
少女はトンネルが通り過ぎたあと、鍵の掛かっていない窓を探した。連絡をきいた兵士の仲間が駆けつけてくるかもしれないからだ。彼らと鉢合わせにならないよう慎重に窓の中を窺う。
覗いた窓の先はどうも倉庫だったらしい。質素なランプが盛大に揺れている。そのランプに照らされて、無造作に積み上げられた木箱が見える。人影は、見当たらない。
もたもたしている時間はなかった。すぐに窓を開ける。
するりと音もなく再び汽車内部に入り込んだ少女は、すぐに木箱と木箱の僅かな隙間に身を寄せる。木箱が乱雑に積み上げられているおかげで助かった。長時間潜む場合に備え、なるべく楽な姿勢になる場所を選ぶ余裕がある。良い場所を見つけると、そこで息を潜めた。
どたばたと騒がしい足音があちらこちらから聞こえてくる。耳に意識を集中し、様子を探る。短いやりとりが入ってきた。
「……応援はないそうだ、我々だけで捕えるぞ」
「すでに二人連絡がつかなくなっている。それなのに、本部はどうして応援を……」
「『龍族』がでたんだ。仕方がないだろう」
舌打ちの音が聞こえて、足音が遠のいていく。
だが、すぐにまたその耳は新しい声と徐々に大きくなる足音を拾った。
「『反応石』がないのが辛いな……」
「仕方ないだろう。客に紛れている可能性を考えると、そちらに回すのは自然だ」
「まぁ、そうだが」
「……おい、ここはもう調べたか?」
「いや、まだだ」
声とともに聞こえていた足音が、ぴたっと止まった。
少女の体が強張る。カチャッと扉を開けるような音が聞こえ、一筋の光が近くの床に射したのが目に入る。足音が近づいてくる。
心臓の音がうるさい。眩暈すらも覚える。少女は目を閉じ、意識を落ち着かせるためにも、どうすべきか考えようとした。
見つかりそうなら、先に飛び出て行って仕掛けたほうが良い。相手は銃を所持しているはずだ。距離を縮めてしまったほうが得である。ただし、今いるのは狭い汽車だ。逃げられる場所が限られている以上、今後のことを考えるとできれば姿を晒したくはない。
悩んだ末、結論は出なかった。いつの間にか汗をかくほど握っていた手に気付き、開くだけで精一杯だ。
足音が間近で聞こえた。数は、一つだ。恐らく、扉の外に一人と、この部屋にもう一人いる。
少女の視界に、ランプの明かりに照らされて揺れる影が入った。全身が強張るのが分かる。
足音が、止まった。
「……どうだ?」
部屋の外から聞こえてきた声。それに答えるまでの男の声が永く感じられた。
「……ここにはいないようだ。他を探そう」
「ああ」
全身の力が抜けた。
影が消え、足音が遠ざかっていく。
そのとき、カサっと、確かに何かの音がした。
「ん?」
足音が止まる。
体が一瞬にして強張った。
「どうかしたか?」
「いや……」
そう言いつつ、足音が近づいてくる。視界に影を捉え、そして尚も影は近づいてくる。
もう無理だ。少女が意を決したその時、チューチューと鳴く音を拾った。
はっとして見ると、少女のすぐ近くにそいつがいた。薄汚い鼠色をした小さな塊にしか見えないそいつは、何かを求めるように少女を見ている。
すぐにそいつを影へとせっついた。
「うわっ」
そいつは真っ直ぐに男のすぐ下を通っていったようだ。
影の進行が止まる。
「なんだ、鼠か」
部屋の入り口に立っているらしい人物の声が、笑いを含んでいた。
「仮にも民間人を守る兵士が、鼠に遅れをとっていたらだめだろう」
影がくるっと向きを変えたのが分かった。
「うるさい。次行くぞ、次」
そして、足音が遠ざかる。行きとは打って変わった、バンッという激しい音とともに扉が閉められた。沈黙が世界を支配する。
「ふぅ」
思わず息をついて、少女は体の力を抜いた。間一髪。耳を澄ましてみても、こちらに向かってくる足音は聞き取れない。かわりに、またしてもチューチューという音を拾った。
はっとすると、少女の近くにそいつがいた。つぶらな瞳で少女を見上げている。どうやら何か御所望のようだ。
少女は鞄を漁り小さなパンを取り出した。補給用に持ってきたパンだ。そうはいっても、もうからからに干からびていて命を繋ぐために何度か齧った痕がある。鼠の狙いはそれだったのだろう。
少女はパンにかぶりついた。窮地を救った礼として、齧ったパンのくずは鼠にやることにする。
しばらくしたら満足したのか、鼠はいなくなっていた。