一夜が明けて
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ジンは光を感じて目を開けた。レースのカーテンを陽光が照らし、透過したものが優しくベッドを照らしている。
ふと目を横にやれば、すやすやと心地よさそうに眠るアンネリーゼの姿がある。彼女が纏っているのはシーツ一枚だけ。結婚式の後、夜の大事な儀式を終えたのだ。
ジンは眠い目をこすりながら起き上がる。かなり慣れたとはいえ、早起きはきつい。しかしやらなければならないことがある。ベッドが放つ【魅了】の魔法を振り切って立ち上がった。
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ジンがやってきたのは城の裏庭。ここでマリオンから教わった魔法の鍛錬を毎朝欠かさず行なっている。少しでも強くなり、生き残る可能性を上げるために。
鍛錬は魔力を練り上げ、複数の魔法を同時に発動させるというもの。ジンは魔力量に関しては限界ともいえる水準に達している。だから鍛えるのは量ではなく質だ。魔力の繊細なコントロールを身につけるーーそれがこの鍛錬の目的だった。
赤、黄、緑、青、紫、白ーー計六つの球が浮いている。これはそれぞれ火、土、風、水、闇、光の六属性の魔法だ。別属性の魔法を同時に発動するというのは至難の業であるといわれているが、ジンはたったの数日で達成していた。どうも魔法に関しては天性の才能があるらしい。
ちなみに執務の方はダメダメ。魔王が不在中に溜まった書類を前日までヒイヒイいいながらこなしていた。地方分権のーー書類が少ない時代でも苦慮していたというのに、敢えて仕事量が増える中央集権にしたというのだから恐れ入る。
魔法の球をあっちへやり、こっちへやり、勢い(不要)をつけて一回転。ラジコン感覚で遊んでいると、不意に人の気配を感じた。
最初は魔王が魔法の練習なんて恥ずかしい、とひた隠しにしていたのだが、『昔からの日課』という最強の言い訳を思いついてからは止めた。だから特訓のことは誰もが知っているし、これこそ最強になる秘訣だ、と自分や子どもに同様のことをやっている者も出ている。なかなか難航しているようだが、それでも従来の魔力任せの姿勢は改善されてきていた。マリオンによれば、魔法使いの質がにわかに上がっているという。こんな短期間に成果が出るものかと思ったが、魔族は元々魔法に関するポテンシャルは高いのだ。そこに技術が加わることで結果を出しているのだろうと推測した。
さて、裏庭に顔を出したのはアンネリーゼだった。ここが魔王のプライベートスペースであるとはいえ、さすがに裸ではない。だがナイトドレスにガウンという扇情的な姿ではあったが。
(寒くないのか?)
鉄面皮の下でジンは疑問に思う。魔界の朝は意外と寒い。太陽だって紫の雲に覆い隠されて滅多にお目にかかれないのだし。だからこそ陽の光を浴びて目覚めたのだから。
「寒くないのか?」
そしてその疑問は素直に口に出ていた。いつもならこうした本音は魔王モードによって隠されてしまうのだが。
アンネリーゼもまた目を丸くしていた。気遣うのがそんなに意外なのか、とジンは少しムッとする。
「そんなに意外か?」
「あっ。も、申し訳ございません」
「責めているのではない。ただ寒くないのか、そして妻の身体を気遣うのが珍しいのかと訊いているのだ」
「珍しいわけではありません。お父様からは落ち着いた方だと聞いておりましたので、そういったことには疎い方だと思ってしまっていたのです。申し訳ありません」
「謝ることはない。これから知っていけばいいのだ。それで大丈夫なのか?」
「はい。寒くありません。ありがとうございます」
「ならいい」
「魔王様はとてもお優しい方なのですね」
「そうか?」
「そうですよ。昨日の夜もーーいえ、なんでもありません」
盛大な自爆は回避したが、少なくないダメージを受けたらしいアンネリーゼは顔を真っ赤にして恥じらう。たった一日しか共に過ごしていないが、彼女のことがたまらなく愛おしい。ジンの表情は自然と優しげな笑みをたたえる。
「わ、笑わないでください」
「いいではないか。馬鹿にしているわけではないのだから」
「よくありません。もう、魔王様は……」
この時の彼女の様子はまさしくプンスカという擬音にぴったり当てはまった。となるとやはりジンは笑ってしまう。
「だから笑わないでください〜」
羞恥心がマックスなアンネリーゼはポカポカとジンの胸板を殴る。彼女に殴られながらジンは不思議に思っていた。
(なんで俺はこんなに自然体でいられるんだ?)
これまで他人の目がある場所では本心をさらけ出すことができなかった。動揺したりすればすぐさま魔王モードに入るーーつまり別人格ともいえる存在になるーーのが常。それなのにアンネリーゼの前では自然体でいられる。彼女も他人であるはずなのに。
(ーーいや、違う)
思えば昨日の夜だってそうだった。結婚式を挙げ、宴会が終わってから寝室で二人きりになった。その時のジンはいつもの平然とした態度はどこへやら。美少女と二人きりであることに舞い上がって冷静を欠いていた。それでもやることはやったわけだが、終始おっかなびっくりだった。アンネリーゼの『優しい』は単に扱い方がわからず慎重にやった結果である。だから彼女の認識は誤解だ。
だがなんとなくわかった。素を出せる相手は家族だけなのだ。公私共にある家族だけ。これは一種の救済制度なのだ。単純に自分でない誰にも本音を見せられないーーそんな生活が続けば誰もが精神を病んでしまう。だから心の均衡を保たせるための、ジンが魔王ジンではなく、ただのジンであるための救済。だとするならアンネリーゼはやはり愛しい、そしてかけがえのない存在だった。
「アンネリーゼ」
「……なんですか?」
「その『魔王様』という呼び方は止めないか?」
「え?」
「お前はこれからいつも俺の側にいる。昼に政務を執っているときも、夜に休むときも。なのにいつも『魔王』なのは嫌だ。お前とーー家族といるときくらい、『魔王』じゃなくて『ジン』でいたい」
「……わかりました。では改めてよろしくお願いいたしします、ジン様ーーひゃっ!?」
アンネリーゼはその申し出を快く受け入れた。それが嬉しくて嬉しくて、ジンはつい思いっきり彼女を抱きしめた。
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アンネリーゼは体育座りしているジンの足の間に収まっていた。身体はジンによって生み出された赤いマントで包まれている。
このようになった経緯はーー運命の悪戯といっていい。
まずジンが『寒くないとはいえそんな姿を他人には見られたくはない』という独占欲から、アンネリーゼに赤いマントを羽織らせた。それに満足したジンが体育座りをして鍛錬を再開する。すると今度はアンネリーゼがジンの足の間は具合がよさそうだ、と思ってそこへ座り込む。かくしてこのような形になった。
しばらくは互いに照れて無口だったのが、時間が経つにつれて慣れていき、ポツポツと言葉を交わす。
「毎朝このような鍛錬をされているのですか?」
「ああ。マリオンに教えてもらって、それから毎朝やってる。晴れていたらこうして裏庭で、雨なら部屋で。ただ他の人には昔からの習慣だって言ってる。魔法が下手な魔王なんて示しがつかないからね」
「下手なのですか? お父様はジン様がおひとりで緑鬼種、青鬼種の連合軍を撃退したと言っておりましたが」
「俺は魔法を独学で学んだからね。使う魔法はオリジナルのものばかりなんだ。逆に基礎の魔法は全然知らない。だから鍛錬をしているんだ。戦闘で使うのはオリジナルだけど、一般に使われている魔法を知ることで相手の動きを予測できるからね。少しでも勝つ確率を上げるために」
「ジン様は努力家なのですね。では私もご一緒させていただきます」
「いや、無理に付き合う必要は……」
「私はジン様の妻です。ジン様が私と共にありたいと願われるように、私もジン様と共にありたいと思っております。それに一般に使われる魔法であればお教えできますし。……それともご迷惑でしょうか?」
「いやいや。そんなことない。嬉しいよ。ならよろしくね」
「はいっ!」
アンネリーゼは最高の笑みを浮かべた。ジンは思う。彼女の笑顔には勝てないな、と。この笑顔のためならどんな無理難題もこなせる。たとえ神がその先に死という運命を用意していたとしても、それを乗り越えて生きられる。それほどまでに彼女の笑顔には力をもらった。そしてそんな彼女が愛おしくてたまらない。
なお、この日ジンがアンネリーゼに羽織らせた赤いマントは、彼女の宝物となって愛用することになる。