凶刃再び
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「ええい、汚らわしい魔族め!」
法衣をまとった少年が手に持つ盃を投げる。中身が溢れて床に赤い染みが広がり、従者たちがせっせと掃除していく。少年は気にする様子もない。むしろ、そうして当然といわんばかりだ。
少年の名前はステファヌスという。教会の現教皇・ベルトランの息子だ。インノケンティウス99世が死に、代わってベルトランが教皇の座に就いた。優柔不断な彼は、魔族の存在を背景にしたジョルジュの圧力に屈している。それを苦々しく思っている聖職者は多く、その代表格が過激派であった。
しかし、ベルトランが優柔不断なのは今に始まったことではない。よって聖職者たちは、その次の代に賭けていた。そのような事情があって、ステファヌスは神の代行者である教会こそが人間世界の最高権力者であり、魔族はこの世から抹殺しなければならないーーという思想的英才教育を施された。そのおかげで、彼は教会至上主義者の権化となっている。
そんな彼にとって、魔族の支配に屈している状況は面白くない。加えて、ステファヌスは『教会は民に寄り添う存在であれ』というジョルジュの圧力によって、地方の教会へと出向させられていた。ここでは王侯貴族をも凌ぐ贅沢な生活とは無縁の、清貧な生活を強いられており、ステファヌスにとっては耐え難い苦痛であった。先ほど投げ飛ばしたワインも、ミサに用いられる安物であり、彼からすればそこら辺の泥水と一緒である。
教会の権威を取り戻したいと考えているステファヌスに、魔族の打倒を目指す過激派が接触してきたのはいうまでもない。何より彼は先代教皇、インノケンティウス99世の嫡孫だ。ベルトランの代わりとしては十分である。ワルテル公爵が過激派の物質的支援者であるとするならば、ステファヌスは精神的支援者であった。
ユリアたちは多くの過激派を摘発した。しかし、全員を捕まえたかというと、そうではない。どれだけ綿密に調査しようと漏れは出るのだ。ただ、ワルテル公爵たち物質的支援者は根絶やしにしたため、取り逃がしても教会関係者は無力化できるとジンたちは考えていた。それがジンたちの誤算である。
運よく難を逃れた教会関係者は、藁にもすがる思いでステファヌスの許へ駆け込んだ。そのことに驚いて事情を訊いたところ、魔族によって襲撃計画が潰されたという話をされた。この計画にはステファヌスも噛んでいたため、機嫌を悪くしたというわけだ。
床に撒き散らされたワインを掃除する従者をつまらなそうに見るステファヌス。そんなとき、部屋に逃げ込んできた教会関係者がぞろぞろと入ってきた。
「ステファヌス様。お願いがあって参りましたーー」
「ああ?」
機嫌の悪いステファヌスに、彼らは決起を呼びかけた。曰く、次期教皇のステファヌスが陣頭に立てば、敬虔な教会信者が挙って戦列に加わるであろう、と。その言葉を聞いて、ステファヌスは胡乱な目をした。
「お前らはバカか?」
そして第一声がこれである。騒めく教会関係者たち。いくら教皇の子どもとはいえ、看過できる発言ではない。
「なぜそのようなことを? ステファヌス様は、このまま魔族の横暴を許してよいと仰るのですか?」
「そういうわけではない。無論、魔族はこの世から抹殺すべきだ」
「でしたら決起を!」
「はぁ……。それだからオレはお前たちをバカだと言ったんだ」
ため息を吐き、なぜ彼がそう思うのかを話す。
「そもそも、お前たちはどれだけ無駄に戦力を擦り減らせば気が済むのだ。いつも信徒が味方する、などという希望的観測に基づいて決起して……。いい加減に気づけ。オレたちは何か目に見える実績を挙げない限り、信徒からそっぽを向かれたままだということに」
「「「……」」」
その言葉を聞いて、教会関係者たちは押し黙る。自覚はあった。だがギャンブルと同じで、今度こそ! という思いで彼らは決起を続けていたのである。それを指摘されると言い返すことはできない。
言葉を失った教会関係者を見て、ステファヌスはもう一度ため息を吐く。そしてこう言い放った。
「とにかく、オレはお前たちに手を貸す気はない。今のところはな。もし手を借りたいなら、何かの手柄を挙げてこい」
しっしっ、と手を振り、教会関係者を追い出す。ステファヌスは教会至上主義者であったが、バカではない。危ない橋を渡ることはしなかった。
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アドリアーナにとって、ミレーナは自分すべてだった。弱気な性格の彼女は、戦闘能力を何よりも重視する獣人族のなかで臆病者と蔑まれていたのだ。他の子どもたちに虐められるミレーナを守るのが、アドリアーナの役目だった。
しかし、その役目はジンに奪われた。
(あの日、アタシは何もできなかった……)
アドリアーナの戦闘能力は高い。近接戦闘であれば麗奈に匹敵する。なのに、襲撃されたときには何もできなかった。突然の事態に動転し、ことの成り行きを呆然と見守ることしかできなかったのだ。それが堪らなく悔しい。
「どうして……」
あの日、どうして自分は動けなかったのか。ずっと自問自答を続けている。しかし、答えはまだ出ていない。
ひとりで考えたいアドリアーナは、食事や就寝の時間以外にはひとりで過ごすことがほとんどだった。今も魔王城を出て、郊外の川のほとりにいる。馬車で数時間の距離だが、彼女の身体能力であれば小一時間で城に帰ることができた。
なお、護衛はいない。アドリアーナは王妃ということで常に護衛がいる。それはどこに居ようと同じだ。しかし、何としてもひとりになりたい彼女は、上手く護衛を撒いていた。事実、護衛は追跡できていない。城の中にいるのか外にいるのかさえわかっておらず、現在も必死に捜索中だ。とはいえ、城の外だとわかってもアドリアーナの居場所を特定するのは難しい。距離が遠すぎる。
しかし、今回はひとりでいたことが仇となる。物思いにふけるアドリアーナを遠目に見る集団がいた。ステファヌスに協力を断られた教会関係者たちだ。彼らは実績を挙げるために魔王城を目指していた。魔王の身内に直接危害を加えるのは難しい。そこで彼のお膝元で騒ぎを起こし、求心力を低下させようという作戦だ。発想が完全にテロリストである。
人間と魔族が交流しやすくなるように、というジンの願いから互いの領域を往来するのに特別な手続きは必要ない。そのため彼らは支障なく魔族領に入ることができていた。そしていよいよ魔都に到着する、というところでアドリアーナを発見したのである。
『……あれは魔王の妻のひとりではないか?』
『確かに』
『周りに護衛は?』
ターゲットを一般市民にしたとはいえ、やはりインパクトは魔王に近ければ近いほど大きい。見た感じひとりで過ごしているアドリアーナがターゲットになるのは当然の成り行きだった。
教会関係者のうち、かつて裏方を務めていた者が昔取った杵柄ーーというよりは止むを得ず周囲を偵察する。偵察の結果、アドリアーナに護衛はいないということだった。では早速襲撃ーーとはならない。
『待て。罠かもしれん』
彼らもステファヌスの言葉を聞いて思うところがあった。ゆえにすぐさま襲撃するのは思いとどまる。
『ここは見逃そう』
『こ、このような機会を見逃すのか!?』
『バカ! 声が大きい!』
教会関係者たちは慌ててミレーナを見る。幸い、気づかれた様子はない。声を潜めて話を再開する。
『我々は何度も罠に嵌められてきた。ステファヌス様の仰る通り、これ以上同志を失うことはできないのだ』
『だが……』
『ここは我慢しろ。それに、まだ希望がないわけじゃない』
明日も現れるかもしれないだろ、と希望を持たせる。そういうことで今回ばかりは見逃すことにした。万が一ということがあるため、ここで野営することにした。そして何日か過ごし、晴れていれば毎日のようにアドリアーナがやってくることを確認する。こうなれば襲撃待ったなしだ。
『作戦を説明する』
何日も無為に過ごしていたわけではない。念入りに計画を練っていたのだ。開幕の先制攻撃として弓矢を射かける。それで仕止められればよし。できなくとも動転させ、その後斬りかかる者たちの支援になればいい。不意討ちも失敗に終われば、全員参加でタコ殴りだ。
計画を練ったにしてはありきたりなものだが、持っている武器がそれしかなかったのだ。一応、アドリアーナが来る方向とは反対に罠も仕掛けている。しかし大半が素人集団であり、罠に自分がかかる恐れがあった。よってこれは最終手段としている。
教会関係者たちはアイコンタクトを交わし、トップが頷く。それを見た射手が羽根を持つ手を離した。




