フェルデンの血戦
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教会の総本山からヴェシュリーンを通って王都シャルルに至る街道がある。その街道の教会側(総本山〜ヴェシュリーン)はフェルデンという大平原を通っていた。途中に山はあるが、それ以外は見事に平地だ。
この地方は小麦の生産が盛んであり、収穫量は人間が消費する小麦のおよそ三割。まさしく家庭の台所を支える大穀倉地帯だ。
付近には農家の家と街道に付随する宿場町があるだけ。残りはすべて畑だ。大軍が展開するのに支障はない。そんなわけでここが決戦の地になったのは必然といえた。
教会軍はここに陣を張って待ち構えていた。斥候も放ち、それによって魔王軍が接近していることにも気づいている。既に臨戦態勢にあった。
「魔族を討ち、神聖なる国土を取り戻すのだ!」
「「「オオーッ!」」」
聖騎士が兵士を煽ると、五百万人が歓声で応える。聖騎士たちは士気が高く勝利は間違いない、と確信していた。
だが、実情は異なる。集められた兵士たちからすれば、戦争に駆り出されるなどたまったものではない。その上、補給が間に合わず飢えている状態だ。士気はどん底である。が、彼らの脳裏には火炙りの刑に遭った者たちの姿があった。ああはなりたくない、その意識が無理にでも声を絞り出させた。
そんな教会軍であるが、『大軍に策なし』という格言の通り、作戦を立てていない。憎き魔族に突撃し、数の力で押し潰すーーとまあ単純明快な方法をとっている。……作戦を立てても実行できるだけの練度がないというのが実情だが。
陣形も単純。聖騎士団で構成された騎兵二万を先頭に、百万ずつの中軍、左軍、右軍、二百万の後軍という配置だ。ジンの狙い、予想通りである。それでも聖騎士をはじめとした教会は勝利を確信していた。こんな大軍、ちょっとやそっとのことでは負けはしないーーと。
しかし、訓練がまったくされておらず、補給も満足にされていない軍隊がまともに戦えるはずがないことは想像に難くない。冷静になって考えれば気づくはずである。そして、気づいた者はいた。ただ言えなかっただけだ。火刑の生々しい記憶が頭にこびりついている。
死にたくない。
その感情は人間が共通して持つものだ。安全欲求は人間の根本的欲求であるがゆえに。マズローの欲求階層説しかり、『衣食足りて礼節を知る』ということわざしかり。
だから気づきはしても口にはしなかった。そして、これだけの戦力差があるんだから多少使い物にならなくても勝てるーーと多くの者が現実から逃げたのである。
それでも現実から逃げない者もいた。代表例は、後軍の医療部隊に配属されたイライアと、同じく後軍の魔術師部隊に配属されたスティードである。
「兵士の方々の士気が低いですね……」
「無理もない。満足に食事もできておらんのだからな。それに……日常的に人が殺されているなかで元気にはなれんよ」
生気がない兵士たちの表情、どんよりとした自軍の雰囲気を見てイライアが感想を漏らす。それを聞いたスティードが理由を答えた。
居並ぶ兵士たちはふらふらして立っているのがやっとという有様だ。とてもこれから戦争に臨む軍隊だとは思えない。むしろ敗残兵に見える。
深刻なのは食糧だけではない。徴用された兵士たちの主な武器は槍だ。剣は相応の技術が必要となるのに対して、槍ならば突くだけで済むからである。そして、その槍の数が絶望的なまでに不足していた。
いくらなんでも五百万人分の槍など揃えられない。店にあるものかき集めたが、それでも十万が限度。職人を駆り出して作らせているが、賄えるはずもない。よって彼らが手にしているのは、長い棒の先端にナイフをくくりつけた急場しのぎの槍だった。
同様に、鎧(防具)も足りない。金属鎧など一朝一夕には揃えられず、皮鎧でも間に合わない。そのため数万人を除く兵士が鎧を着ていない。
金属製の盾も同様の理由で数が足りず、代わりに木製の盾が用意されていたが、騎兵突撃でも受ければまとめて貫通されそうな貧弱装備だった。
『まるで田舎貴族が虚勢を張った張りぼての軍隊のようだ』
後世の歴史書にはそう記載されること間違いなしである。
こんな状況で戦おうなんて正気ではない。が、二人には何も言えない事情がある。勇者(麗奈)の身柄を奪われ、二人は教会に助けを求めた。この戦いはそのためのものでもあり、それに異を唱える筋合いはない。かつ、その失態により二人の名声は地に落ちた。そんな二人の言葉には誰も聞く耳を持たない。
「緑鬼種以下の軍隊じゃな」
スティードは小さな声で呟く。その表現は、人間に対する最大の侮辱であった。彼らは魔族でも緑鬼種や青鬼種だけならば勝てると認識している。そして『それ以下』ということは、『緑鬼種、青鬼種より弱い』ということを意味する。
「それは……」
イライアは咄嗟に反論しようとしたが、何も思い浮かばず尻すぼみになる。はたして教会軍はまともに戦えるのか。二人の不安は増す一方だった。
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魔王軍と教会軍が激突したのは朝のことだった。
「団長! 東より、魔族の軍勢が我が方へ突進してきます!」
「種族、数は?」
「馬魔種、二万!」
斥候からの報告を聞いた聖騎士団の団長兼教会軍総司令官、パーヴェルはニヤリと笑った。
「いいタイミングで来てくれたな」
「はい。我ら全員、腹は満杯。準備は万端です」
決戦の日が今日になるだろうと予測していたパーヴェルは、食糧を聖騎士団に優先的に回すように命令していた。おかげで騎士団全員、満腹である。戦支度はできていた。裏返せば徴用兵に回す食糧はいつもよりもさらに少なく、こちらは戦支度はできていないということだが。
「聖騎士団、騎乗ッ!」
パーヴェルは指示を飛ばす。と同時に、自らも愛馬に跨った。騎兵槍を掲げて騎士団の前に出る。
「諸君! 時は来た! 今こそ我ら聖騎士団の力を以って、悪しき魔族を討ち滅ぼすぞ!」
「「「オオーッ!」」」
「ここで魔族の軍勢を打ち破り、その勢いを以って大陸から奴らを叩き出す!」
「「「オオーッ!」」」
パーヴェルが演説している間に、魔王軍が彼らの視界に入った。その敵へ騎兵槍を向け、
「総員、突撃ッ!」
と号令するや、愛馬の腹を蹴る。団員も彼に続いた。聖騎士団二万人は、そのすべてが重騎兵。その圧力は半端でない。馬蹄を轟かせて突撃する様は、相対する者に恐怖の本当の意味を教える。
彼らと相対する魔王軍ーーキタサン率いる馬魔種は、文字通りの意味で人馬一体であるためなんとも表現できないが、分類としては軽騎兵に近い。
「怯むな! 槍、構えーッ!」
鉄の津波のような聖騎士団の突撃を正面から受けることになったキタサンは、部下を叱咤して動揺を抑える。そして短槍を用意させた。一拍置いて、
「投げーッ!」
構えた短槍を一斉に投擲。馬魔種が誇りとする投槍だ。騎兵突撃の勢いを乗せて投げている。その威力はオリンピックの槍投げと比べるべくもない。
槍の雨が降り、聖騎士たちを傷つける。不運にも落馬、転倒した者は後続に踏み潰された。しかし聖騎士団は突撃を止めない。楔形の陣形を維持し、喊声を上げて突き進む。馬魔種も受けて立つ、とばかりに剣や槍を構えーー激突!
初撃で軍配が上がったのは教会軍。やはり重騎兵の突破力は、こうした騎兵突撃でこそ発揮される。
加えて武器の差も大きい。聖騎士団の騎兵槍は、刺突武器である。相手が板金鎧でガチガチに固めていようが、まとめて貫くために作られていた。革鎧しか身につけていない馬魔種を倒すことは難しくない。
一方、馬魔種の武器は剣や槍。重騎兵の鎧を貫けないことはないが、そんなことをすれば一瞬で使い物にならなくなる。よって狙うべきは鎧の隙間。必然、的は小さくなる。しかも、互いに猛烈な速度で移動しているのだ。狙ったところに当てるなど、もはや神業である。
このような特性上、正面からぶつかった場合の優劣は明らかだった。それはジンも承知しており、だからこそキタサンたち馬魔種を決戦の場に引きずり出すための囮にしたのである。
「これはたまらん。引け! 引けーッ!」
分が悪いと感じたキタサンはすぐさま撤退の命令を出す。その指示に従って部下たちが身体を返し、撤退を開始した。
それを見た聖騎士団は色めき立つ。
「逃すな! 追え! 魔族を根絶やしにせよッ!」
パーヴェルは魔族に負け続けた反動から、見えた『勝ち』に興奮した。それは他の団員も同じで、意気揚々と追撃に移る。
とはいえ、軽騎兵と重騎兵ではその速度に違いがある。互いの距離は徐々に開いていった。普通ならそこで諦めるところだが、勝利という名の目の前にぶら下がる人参を手にしようと彼らはひた走る。
突出する聖騎士団に離されないよう、後続の民兵も続いた。やはり速度の差から引き離されてしまったが。
逃げる馬魔種に追う聖騎士団。少し先を行く馬魔種を必死に追いかける。興奮して冷静さを欠いている聖騎士団は気づけなかった。軽騎兵重騎兵、彼我の速度差で『少し先を行く』なんてことが起こり得るはずがないことに。
だが、その追いかけっこは終わりを迎える。目前にジン率いる魔王軍が現れたためだ。馬魔種が左右に散開する。
「撃てッ!」
号令一下、聖騎士団を矢と魔法が襲う。そのため追撃してきた勢いが削がれた。
「止まるな! 進めぇッ!」
パーヴェルが部下たちを叱咤する。部下たちもそれによく応え、隣の仲間が倒れても気にせず前に進む。そして魔王軍の前衛ーー人魔種の歩兵隊にぶつかった。今度は防御に関しては定評のある人魔種が相手。開いた隙間に素早くフォローに入り、陣形に綻びを生まない。聖騎士団の突撃をガッチリ受け止めていた。
「撃て! 撃ちなさい! あなたがたが敵をひとり倒せば、それだけジン様のご負担が減るのですから!」
足が止まったところへ吸血種の魔法攻撃が殺到した。彼らの姫、アンネリーゼがやや公私混同した叱咤激励を飛ばす。従う吸血種たちは、敬服するこの状況でなおジンのことを考える彼女に敬服するとともに、そこまで想われるジンに嫉妬する。その思いはまさかジンにぶつけるわけにはいかないので、聖騎士団への攻撃に転嫁された。
「他はともかく、ジン様に当てたら承知しませんからね!」
「「「っ!?」」」
アンネリーゼの言葉に、吸血種たちが撃つ魔法の角度が上がる。万が一にも当たるようなことがあれば命はない。
後ろでそんな寸劇が繰り広げられていると知らないジンは矢継ぎ早に指示を出していた。
「第二陣に伝令。『余の命があり次第、前進して敵陣に綻びを生め』。また、第三陣のオルオチ、クワメにも伝令。『牛魔種が開けた穴を広げよ』と」
指示を受けた伝令兵たちが散っていく。その直後、まるで狙い澄ましたようなタイミングで聖騎士団後方からマリオンとアベル率いる魔王軍別働隊が襲いかかった。
「団長! 後ろから敵です!」
「なんだと!?」
パーヴェルは動揺した。前方の敵は自分たちよりも数が多い。守勢に回れば押し潰されるだろう。だから攻撃を続け、相手に反撃の暇を与えないようにしていたのだ。こうして後続の民兵を待っていたのである。しかし後方からの奇襲でその目論見は潰えた。彼の脳内はどうやって後ろに回り込まれたのか、という疑問で埋め尽くされていた。
撤退の二文字がちらつく。前方の敵陣はかなり厚い。このままでは押し切られてしまうことは間違いなかった。しかし、パーヴェルが決断する直前に朗報が舞い込む。
「民兵隊が到着しました!」
「そうか! よし、攻撃を続行するぞ!」
それは待ち望んだ報告だった。これで数の差が逆転する。自分たちは挟撃されたが、相手も挟撃された。そして、五百万の攻勢を受けて長くは保たないはずだ。もう少しの辛抱。そう考えれば攻撃を躊躇う理由はない。パーヴェルは後方の味方には防戦を命じ、自分たちは前の敵に集中した。
聖騎士団の後方を襲ったマリオンとアベル。彼らは近くの森に潜み、馬魔種を猛追する聖騎士団をやり過ごしてから追撃をかけたのだった。すぐさま民兵隊に後ろを攻撃されたわけだが、海千山千の二人は落ち着き払っている。
「魔王様の予想通りですな」
「アベル殿、後ろはお任せします。前はワタシが」
「お任せあれ」
即座に役割分担して、それぞれが聖騎士団と民兵隊に対処する。
アベルは民兵隊の攻撃を、部下の人魔種を上手く操って受け止めた。相手は素人集団。できることは、数に任せて遮二無二突撃すること。その攻撃をいなすことは難しくない。少なくとも、一時間やそこらで突破されるようなことにはならなかった。
マリオンは人魔種で聖騎士団の攻撃をふせぎ、吸血種の魔法で仕止めるというジンと同じスタイルで戦っていた。大きな効果はなくとも着実にその数を削っている。
ジンがこの一軍に二人を配したのもこれを狙ってのことだった。人魔種は防御に定評のある種族だが、当然、それを率いる種長も防御に長けていた。そしてもうひとりの将は、魔王軍の攻撃の要、吸血種の種長に任せれば攻守でバランスのよい組み合わせになる。その点、マリオンとアベルならばしばらく自分の補佐をしてきたことから息が合うだろう、と考えての人選だ。
「鎧を狙うのだ」
アベルは射手に指示して鎧を着た民兵を狙わせる。雑多な装備の民兵隊だが、鎧を着た人間はとても目立つ。そんな人間が民兵のなかでもリーダー格であることは間違いない。それを除けば、敵の統制にかなりの混乱をきたすことができると考えたのだ。そして、その狙いは的中した。鎧を着た民兵が倒れると敵は明らかに浮き足立ち、攻撃が及び腰になる。おかげで防戦もいくらか楽になった。
「民兵はまだ敵を突破できないのか!?」
パーヴェルは怒鳴る。が、部下の答えはイエスだ。前後の敵は頑強に抵抗して突破を許さず、自分たちはゴリゴリとその数を減らしていた。全滅の未来もちらついている。そして、それは急速に現実のものになろうとしていた。
「団長! 前方の敵が牛魔種、緑鬼種、青鬼種を繰り出しました!」
「ぬう……」
それは魔王軍が全面攻勢に出たも同義であった。これへの対応にパーヴェルは頭を悩ませる。ただえさえ劣勢なのに、ここへきてさらなる戦力投入。全滅へのタイムリミットはさらに短くなった。
「敵は悪魔か……」
魔族の大将ーージンに対して恨み言を吐く。本人がそれを聞いたら魔王だ、と真顔で返しただろう。万が一にもアンネリーゼに聞かれれば、地上から塵ひとつ残さず消されたかもしれない。まあ距離や戦場の喧騒があるのでそんなことにはならず、パーヴェルはその命を永らえさせることとなる。
「撤退する!」
そして恨み言ひとつでとりあえずの心の整理をつけた彼は、ようやく撤退を決断した。
「撤退ですか!?」
「なぜです!? 我らはまだ戦えます!」
「団長!」
部下たちが翻意を迫るが、パーヴェルは聞き入れなかった。
「旗色が悪い。ここは一度退き、態勢を立て直す」
これは『敗走』ではなく、あくまでも『戦略的撤退』なのだと説明して部下を説得する。撤退を転進、全滅を玉砕と言い換えるような単なる言葉遊びなのだが、部下たちもそれならばと納得した。
ただ、そうと決めたものの、現状はあまりよくない。聖騎士団は魔王軍本隊の守りに阻まれて騎兵突撃の勢いを完全に削がれた。完全に足が止まり、騎乗する騎士は高いところにいるいい的だ。魔法や弓で撃たれ、歩兵に引きずり降ろされて嬲り殺しにされていた。そのため下馬して歩兵として戦っていたのだが、撤退するとなれば馬に乗る必要がある。問題は、その時間をどうやって稼ぐかということ。よりストレートに言えば、誰を見殺しにするのか、ということだ。
「……」
パーヴェルは悩む。指揮官としての自分は誰かを見捨てよ、と言っている。だが、私人としてはこれまで苦楽を共にした仲間を見殺しにはできない、と言っている。どちらも間違っていない。だからこそ決められなかった。
「団長」
声をかけてきたのはブレスト。聖騎士団の副団長だ。
「俺たちが魔族を食い止めます。その間に逃げてください」
「お前……死ぬ気か?」
「まさか。まだ幼い子どもも、妻もいるんです。必ず生きて帰りますよ」
軽い調子で言っているが、パーヴェルには『妻子をよろしく頼む』という遺言にしか聞こえなかった。
「……すまない。殿は任せた。帰ったらエールを奢る」
「とびきり上等なやつを頼みますよ」
ブレストは間接的に『死ね』と言われても笑っていた。敵に囲まれた状況で生き残るなど無理だ。それでも彼は強がる。パーヴェルはその心意気に敬意を表するとともに、部下たちに命じた。
「騎乗! 血路を開いて撤退する!」
同時にブレストも命じる。
「俺の隊は殿だ! 攻勢を強め、魔族を押し返すぞ!」
聖騎士団は精鋭だ。特に混乱をきたすことなく、命令は履行された。パーヴェル率いる大多数の団員は騎乗し、包囲の薄い左翼へ向けて走る。ブレスト率いる部隊(千人)は限定的な攻勢に出て、パーヴェルたちが包囲を抜け出す時間を稼ぐ。
「一兵も逃すな!」
しかし、それを見たジンはすぐに攻勢を強める。決死の覚悟で戦う相手を攻撃するのは悪手なのだが、今回の戦いを対人間戦争の最終決戦と位置づけているジンは、その主力ーーつまり反抗の起点となる存在をここで文字通り全滅させるつもりだった。ゆえに今回に限っていえば、被害は無視する。
魔王からの勅命により、魔王軍は総攻撃に出る。数に劣るブレストたちにはどうにもできず、三十分も経たないうちに全滅の憂き目に遭った。
ブレストたちを犠牲にして逃げ出したパーヴェル以下の聖騎士団主力部隊だったが、彼らにも悲劇が襲いかかる。
「突撃! 先ほどの借りを返してやれ!」
横合いから馬魔種の部隊が突撃を敢行したのだ。完全に不意を突かれたパーヴェルたちは為す術もなく蹂躙される。そこへ緑鬼種、青鬼種が襲いかかった。一体二体と倒すが、三体四体と続けざまに戦って疲弊し、やがて倒される。その間にジンは部隊を移動させて逃げ道を塞いでいた。それから徐々に包囲の輪を狭め、聖騎士を確実に討ち取っていく。
「魔族め! こんなーーぐっ!」
最終的にパーヴェルも討たれ、ここに人間最期の希望、聖騎士団は全滅した。
「そうか」
この報を聞いたジンはしばし瞑目して死んでいった聖騎士たちの冥福を祈った。それが終わると、おもむろに魔法を空へ向かって放つ。【ファイアボール】一発。それはこの場にいない者たちに対する合図だった。
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「おい、あれを見ろ!」
戦意というものが欠片も存在しない民兵隊。教会の指示で仕方なく戦っているが、本音では戦いたくない。妻や子どもは元気だろうか。農地、家畜は大丈夫か。自分がいなくても商売は上手くいっているだろうか……などなど。心配事を挙げればキリがない。
五百万人もいるとはいえ、一度に全員が戦うわけではない。というか、そんなことは物理的に不可能だ。よって手持ち無沙汰な人間が出てくるわけだがーーむしろこちらが多数派だーーそのうちのひとりがあることに気づいた。気づいてしまった。周りの民兵もその声に釣られて男が指さす方を見て、言葉を失う。
男が指さす先、戦場からさらに奥ーー山に軍勢が現れた。その先はボードレール王国。すなわち、魔族の支配地域。そんなところから現れるのだから、魔族の援軍であることは疑いようがない。その隊列が延々と続いていた。さらに、
「おい、あれ!」
今度は右翼の民兵から声が上がる。自分たち(民兵隊)の真横にある森からぞろぞろと現れたのは、無数の異形ーーアンデットだった。同じ光景は左翼でも見られた。
「これは……幻術か?」
「そのようです」
高レベルの魔術師であるスティードとイライアは、突如現れたアンデット軍団が幻術によって生み出された存在ーー要は虚仮威しであることを看破した。しかし、一般の民兵にそんなことがわかるはずもない。彼らは見たままの光景を信用した。
前方に魔王軍。その後方には増援と思われる大部隊。左右はアンデット軍団。見えているだけでも万は楽に超す。さらに奴らは森の中から現れた。よってその数はよくわからない。これだけかもしれないし、もっと多いかもしれない。
人間、わからないと不安になる。さらに消失した聖騎士団もまた、その不安を助長する。やがて、ひとりが逃げた。それを見て二人、三人、四人……と続いていく。最終的に民兵隊全体が潰走した。
「上手くいったな」
と、笑みを浮かべるジン。民兵隊は元々戦意が低かったが、潰走はそれだけが理由ではない。抑圧していた聖騎士団の壊滅もその理由だろう。しかしそれ以上に有用に作用したのは、森に潜ませたマルレーネ以下の淫魔種が使った魔法だった。
【ヒプノシス】
彼女たちが使った魔法の名前だ。その効果は名前の通り催眠。これにより冷静な判断力を失わせ、ジンが【イリュージョン】の魔法で生み出した増援やアンデットを見せる。民兵たちはこれを恐れ、我先にと逃げ出したのだ。
淫魔種は決戦が行われている最中も森に潜み、このための準備を行っていた。なにせ五百万人もの人間を対象に催眠をかけるのだ。その準備は大規模なものとなる。さらに数が数だけに、ひとりひとりに作用する効果も弱かった。
しかし、それで十分なのだ。ジンはこれで数人の逃亡者が出るだけでいいと考えていた。魔法を作用させるのに数は敵だが、作用してからは味方になる。ジンは集団心理を利用して、わずかな逃亡者を民兵隊崩壊のきっかけにして見せた。勝算もあった。戦う前から厭戦気分が漲っていたのだから、あとは最期のひと押しをしてやればいい。ゼロからやるより楽な仕事である。
「魔王様、追撃をかけましょう!」
逃げていく民兵隊を見て、部下のひとりがジンに献策した。しかし、ジンはこれを退けている。
「我が軍も疲弊している。今日は休み、明日から追撃する」
もっともらしい理由だが、本音は別にある。それは、追撃して混乱を助長すれば要らぬ犠牲を出すことになりかねないからだ。ジンは基本的に人命を尊重しているため、特に必要性を感じない追撃に消極的だった。
ともあれ、これにてフェルデンでの会戦は終結。教会軍の死者は約三万。魔王軍の死者は約一万。結果は聖騎士団の全滅と民兵隊の崩壊によって魔王軍の勝利。
この報に接したインノケンティウス99世はショックのあまり倒れたという。この戦いは人間の敗北が決定づけられた出来事となった。




