ハネムーンⅣ
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マルレーネとユリアに見送られてジンたち一行は北州(旧牛魔種領)へ向かった。この旅もその大半を船上で送ることになる。ゆえにジンは壮絶な覚悟をしていたのだが、さすがに二度目となるとアンネリーゼにも多少の落ち着きが見られるようになった。密かに胸を撫で下ろすジン。今回の船旅は前回よりもはるかに平穏である。
ある日の朝。ジンは船長から北の海にさしかかったと告げられた。
(道理で寒いわけだ)
その言葉に納得する。おかげで今日は早起きするハメになった。寝る前に少し夫婦の運動をしていたおかげで寝不足だ。ちなみにアンネリーゼは元気で、いつも通り寝ていた。それは寒さに起き出したジンが慌てて毛布をかけたからである。さすがに全裸にシーツ一枚では風邪をひく。そんな夫の陰ながらの努力など知らない彼女は、
「雪が見られるかもしれません」
などとはしゃいでいる。西州にも雪は降るが、基本的に北部の山に限られる。もし平野に降れば大騒ぎだ。もちろん過去に例はあるが、アンネリーゼは遭遇したことがなかった。だからこうして子どものようにはしゃいでいるのだ。
「そうだな。そのうち降るかもしれん」
そう返事をしながらも、ジンはあまり叶ってほしくない願いだと思っていた。というのも彼は流氷を心配していたのだ。主に極部から流れてくる氷の塊のことだが、これがやってくるのは冬。そして雪が降るのも冬。だからアンネリーゼの願いはできるなら叶ってほしくない。だが、
「もしかしたら見られるかもしれませんね、王妃様。今は冬ですから」
船長がそんな絶望的なことを言った。ジンは密かに対策を打つことにする。さすがにタイタニックの再演だけはご免だった。
そしてまた別の日。この日は朝から騒がしかった。
「流氷だ! 流氷だ!」
見張りが叫ぶ。すると船員たちの間に緊張が走った。
「なんだと!?」
「くそッ! 吹雪いているときに……」
そう。昨日の夜からアンネリーゼ念願の雪が降っていた。……猛烈な風を伴って。つまり猛吹雪のなか、船は激しく揺られながらも航行していたのである。この時代の価値観からすればデンジャラスを通り越してクレイジーな行いだ。
だがそうしなければならない事情があった。マリオンから催促の手紙が届いたのである。馬車が故障したとか、風邪をひいて大事をとった、などなにかにつけて旅行の日程を引き延ばしていたが、痺れを切らしつつあるらしい。だからなるべく日程を短縮しなければならなかった。その一番が、船旅である。これはジンの強い要望であり、理由は言わずもがな。そのため時化ようとも寄港してやりすごすようなことはせず、強引に航行するようにしていた。それが今回は仇となった。
しかし吹雪のなかよく見つけたものだ、とジンは感心する。彼は船の後部甲板に立っているが、そこから普段見えていた舳先は見えない。それほど視界が利かないのだ。
「魔王様! 火魔法で航路を啓開していただけませんか!?」
「ダメだ! 氷を一気に溶かすと視界がさらに悪くなる!」
ジンは船長からの依頼を断る。低温下で氷を一気に溶かすような真似をすれば、水蒸気が雲になって視界を遮ることは必至だ。だがジンはこのような事態を予め想定していた。もちろん、その対応法についても。
「だが気にせず進め。余が道を開こう」
「は、はいっ!」
ジンがーー魔王がそう言う以上、船長たちに逆らうという選択肢はない。もとより引き返せないのだ。彼らは己の命運をジンに託した。それは彼の腕の中にいるアンネリーゼもまた同様である。……いや、彼女は最初から疑ってなどいなかった。その顔には『ジンに不可能なことはない』と書かれている。そんな彼らの想いを一身に集めるジンが打つ手とは、
「【渦潮】」
船の前方に潮の流れを作り、流氷を強制的に移動させるというものだった。軸線を境に左右対称に渦を生み出して、自然に左右へと逃がす。これが流氷を溶かさずに避けるべくジンが編み出した方法だった。これを見た船員たちは、
「おおっ!」
「奇跡だ……」
と軒並みジンの腕に感心する一方、
「魔王様を阻むものなどないのだ……」
などと、何やら妙な考えを呟く者もいた。
それはさておき、ジンたちは無事に流氷群から抜け出し、北州の港へ停泊した。そこから馬車に乗って行くこと半日ーー夜には州都へ到着する。北州の主要産業は畜産である。この世界では"カウ"という魔物らしいが、ほぼ牛と考えていい。牛が牛を育てているのだ(もちろん豚や鶏、羊も育てている)。なんともシュールである。
出迎えは牛魔種の兵士十数名と、代表者らしき文官一名。文官がジンに挨拶する。
「魔王様。遠路はるばるようこそおいでくださいました」
「うむ。出迎えご苦労」
「皆さまには当州で最高の宿をとっております。まずはそちらでごゆるりとお寛ぎください」
そう言って彼らはジンたちを先導する。案内された先は、人魔種や吸血種の商人たちが利用するという高級宿。内装もとても凝っていた……必要以上に。本館から離れているうえに部屋のあちらこちらにある宝石が目に痛い。極めつけは黄金の茶室ならぬ黄金の風呂場である。とても眩しい。
「こちらは魔王様がいらっしゃられたときのための特別なお部屋です。専属の使用人もおりますのでなんなりとお命じください」
こんな部屋にいられるか! と、怒鳴ってやりたいジンだったが、さすがに大人である。愛想笑いで誤魔化した。胸では一刻も早くここから出て行く、と思いながら。
翌朝。悟りを開いた高僧のように心穏やかな心境にジンはあった。部屋のことを極力気にしないようにしていると至った境地である。ちなみに専属の使用人というのは人魔種であった。一瞬奴隷かと思ったが、聞けば宿の支配人に雇われた労働者のようだ。ただ、その経緯が困窮した農家に限定されていたため、広義では身売りの一種にあたるかもしれない。
(……最低賃金と労働監督官を設けよう)
見れば彼らはあまり血色がよくない。それを少しでも改善するための法制度を整備することにした。頭のなかにあるメモに書き込みつつ、朝食が運ばれてくるのを眺める。と、
(これは……!?)
漂ってきた匂いにジンは戦慄する。朝にはあまり嗅ぎたくない匂いだ。クロシュが皿の上から取り払われると、途端に強烈に漂う芳醇な香り。それはステーキであった。肉汁たっぷりの巨大ステーキ。……とても朝から食べる代物ではない。
「北州の特産であるステーキでございます。最高級の部位を、州最高の料理人が調理いたしました。どうぞ、ご賞味ください」
サーブしてくれた使用人が説明してくれる。ジンは個人的に朝から脂っこい食べ物はご免こうむりたいのだが、そういうわけにはいかない。やむなくそのステーキを食べた。
(魔王も楽じゃないな)
ジンのなかの傍若無人な魔王というイメージは崩れ去っていた。
とてつもなく重い朝食を終えると、宿に州長官が訪ねてきた。
「お初にお目にかかります。わたしはアンガス氏族のプラチナです」
「今日は領内を案内してくれるそうだが……」
「はい。牧場を中心にご案内させていただきます」
プラチナの言葉通り、ジンたちは州都近郊の牧場へ連れ回された。そこで飼育されている"カウ"たちを見たり、"ミルクの実"が鈴なりになっている果樹園を見る。実をひとつもいで飲んだ新鮮なミルクはとても濃厚だった。
その日の夜はパーティー。プラチナの兄と姉をはじめ、牛魔種の有力者を次々と紹介された。ジンはそれに必死さを感じた。そして前回の戦争で日和見した失点を回復しようとしているのだろうと結論づける。もちろん歓待された程度でどうこうするつもりはない。彼らに対しては特に何もしない、という方針だ。
かくして北州も巡った。友好的な勢力はここまで。あとは敵地といっていいだろう。そして次は旅の建前となっているドラゴン討伐を行う北東州だ。気を引き締めて、抜かりのないようにしようーージンは決意を新たにした。




