ハネムーンⅢ
ーーーーーー
「うわぁ。見てください、オリオン様。あそこにクジラの群が!」
「ん? ああ、いるな」
「もう。オリオン様は反応が鈍いです」
頰を膨らませたアンネリーゼが軽く睨む。それにジンは苦笑で応えた。少しキツめの美人といった印象のアンネリーゼだが、こうやって子どものような反応をすることがある。ジンはその姿をとても愛していた。もっとも吸血種に睨まれて平然としていられるのはこの世でジンかドラゴンくらいのものである。
しかしジンにだって言い分はあるのだ。アンネリーゼたっての希望で、島州まで三日ほどかけた船旅を企画した。それはいい。愛する妻がのんびりとクルージングを楽しみたいと言うのだ。次はいつになるかわからない。だからたとえ後々マリオンに叱られることになるとはいえ、妻の願いを叶えたのである。
こうして始まった船旅は、とても順調だった。特にトラブルも起こっていない。アンネリーゼも大はしゃぎだ。だが次第に彼女のテンションに置き去りにされ、彼我のテンションに大きな差が生まれた結果、あのような素っ気ない態度になったのだ。
この世界の人々からすれば海は神秘的なものに溢れているかもしれない。だが魔法はなくとも科学が非常に進歩した世界からきたジンからすると、表面的に見える事柄はおおよそ解明されてしまっていた。もちろんまだ謎は多いだろうが、ジンはあまり興味を抱かなかった。もし海の満ち引きが月の影響ではなく大気を漂う魔力云々といわれても、やはり興味はない。
「むぅ。最近ジン様が冷たいです」
しかしアンネリーゼはそんなジンの素っ気ない態度がお気に召さないようである。ジンはそんな不満タラタラの妻をなだめるのにかなりの時間を要し、精神的疲労を蓄積するだけに終わった。
ーーーーーー
三日の船旅を経てジンたち一行は島州の港町に着いた。島州といえば果実類の名産地である。平野部は熱帯の気候であるが、島のあちこちにある山々はかなりの高さがあり、気候は場所によれば亜寒帯と同じになる。そこに果樹園を設け、数多くの種類の果樹を栽培していた。
こちらにも先触れを出していたため、ジンたちは港で出迎えを受けた。
「ようこそおいでくださいました」
出迎えたのはマルレーネ。ジンはなぜ魔都にいる彼女が? と訝しんだが、すぐに帰省の許可を与えていたのを思い出した。色々と変更があった結果、彼女の日程とぶつかったらしい。
「久しいな、マルレーネ」
「はい。ご無沙汰しておりました、魔王様。そして王妃様も」
「マルレーネさん、お久しぶりです」
アンネリーゼはジンの右腕に抱きつく。彼の右腕が幸せな感触に包まれた。
(そんなに警戒しなくても……)
などと思いながらも色々な意味で嬉しく思うジンだった。
マルレーネは年上の余裕か、そんなアンネリーゼを穏やかな目で見ている。
「お前が案内してくれるのか?」
「はい。島州の州都はここからほど近くになります。ですが本日はここでお泊りいただき、明日、出発いたします。ですので本日のお宿にご案内いたします」
そう言ってマルレーネは街で一番豪華だという宿に案内してくれた。この港は商港であり、金持ちが集まる街だけあって内装はかなり豪華である。南に位置しているため海も綺麗で南国リゾートにでも訪れた気分になる。景色のみならず料理や名産の果樹も美味しかった。大満足である。
その夜、アンネリーゼは頑張った。マルレーネに付け入る隙は与えまいと、限界まで頑張った。頑張りすぎて気を失った彼女にジンはシーツをかけてやり、彼自身満足して眠りについた。
翌朝。ジンたち一行は港町を出発した。州都に着くのは夕方の予定だ。歓迎の晩餐は色々と疲れがあるだろうから、と明日の夜に行われることになっている。マルレーネの意味あり気な言葉に魔王モードのジンはともかく、アンネリーゼは赤面していた。どうやらバレバレのようだ。
「魔王様。大変恐縮ですが、観光は宴のあとにしていただきたいのです。警備の関係でまだ下級の役人には周知していませんから、失礼があるかもしれませんので」
「なるほど。理由はわかったが、それまで我々にどうしろと?」
ここでジンは少し挑戦的な発言をする。魔王を待たせるんだからそれなりの対価は用意してるよね、と言っているのだ。可愛い嫁を可愛がってくれたマルレーネへの、ほんのお返しである。
「折角ですので、輿入れ前のこの機会に娘との顔合わせをしていただきたいと思っております」
「なるほど」
さすがというべきか、その場で思いついただけのジンの言葉では老練なマルレーネを崩すことはできなかった。いや、むしろ負けていた。なぜなら、
「ジン様。輿入れとはどういうことですか?」
アンネリーゼが烈火のごとく怒っていた。ジンは狼狽する。
「マリオンから聞いていないのか?」
「聞いてなどおりません! ジン様の浮気者〜ッ!」
「誤解だ、アンネリーゼ。話せばわかる! 話し合おう!」
「問答無用ォ!」
魔王と王妃による魔法大戦が勃発! ジンが必死に説得して数分で停戦したものの、その余波で山がいくつか消し飛び、巨大なクレーターがいくつもできた。ただ幸いだったのは消し飛んだ山は、交通の便をよくするために淫魔種が長年格闘してきた山だったことだ。この事件で事態は一気に解決した。さらにクレーターはその数ヶ所から温泉が湧き、残りはため池となった。そこには街ができ、街道が接続され、温泉などの施設もあることから世界有数の中継都市として大いに栄えることになる。後世の人々は言った。
『不幸中の幸い』と。
ーーーーーー
人々に伝えられていないというのは本当らしく、ジンたちが乗る馬車が市街に入っても騒がれなかった。
「なんだかこれまでとは違って寂しいですね」
アンネリーゼがそんな感想を漏らす。たしかにこれまで訪れた場所では歓待を受けたため、ひっそりと入るのは不思議な感覚だ。
「申し訳ありません。ここに魔王様がこられると大変なことになりますから」
「大変なことって、ジン様は淫魔種に便宜を図っているではないですか」
アンネリーゼが剣呑な気配を纏うが、
「いえ、その……魔王様ほどの立派な殿方を見ると、淫魔種としての本能で種をいただくために襲いかかる危険性がーーあっ、窓は全開にしないでください。そっと。ほんの少しだけです」
まるで劇物でも扱っているかのような細やかな指示。ダチ○ウ倶楽部の例をひくまでもなく、やるなよと言われればやりたくなるのが人の性である。
「ダメですよ」
(そんなこと言って)
「絶対に、ダメですよ」
(実は開けてほしいんでしょ)
……マルレーネの視線が真剣だ。ジンはチキって指示通りに少しだけ窓を開ける。そしてジ○ニーズにいるようなイケメンの幻影を生み出して街に放逐してみた。
『見て、イケメンよ!』
『本当だ!』
『男ォ!』
たちまち周囲を歩く淫魔種たちに群がられた。もちろん幻影なので触れない。ジンは幻影を消してアンネリーゼに言った。
「……やめておこう」
「ですね」
アンネリーゼの顔は青ざめている。まさかこんなことになるとは思わなかったのだろう。ジンもそうだ。
「最近、あまり殿方が島州にいらっしゃらないので困っておりますの」
(さらっと陳情を上げてくるな!)
難しい内容だから、とても旅先でホイホイと考えられるものではない。ただそんなことは素直に言えないので、ジンはなるべく政治から離れて旅をしたい、と適当な理由をつけて問題を先送りにした。
種長の館を改装した州庁舎に入ると、ジンたちは数人の出迎えを受けた。
「ようこそいらっしゃいました、魔王様。本日はこのようなお出迎えになってしまい、申し訳ございません」
州長官が深々と頭を下げる。
「気にしていない。だな、アンネリーゼ?」
「はい。隠密行動の必要性は十分理解しています」
と言う彼女は馬車を降りてからずっとジンの腕によりかかっていた。夫の貞操を守らねばならない、という使命感からである。ジンはその程度は撃退できる、と言ったのだが、肉欲の前では無意味です、と一蹴した。実は吸血種には『人魔種は性にふしだら』という格言じみたものがあり、人魔種の夫や妻を持ったなら要警戒とされている。ジンはそんな人ではないと信じているアンネリーゼだったが、万が一、億が一の事態に備えたのだ。
案内された一室でジンたちが休んでいると、メイドがマルレーネからの伝言を伝えた。曰く、夕食を娘との顔合わせにしたい、と。ジンは快諾した。アンネリーゼが同席する、と主張したが、彼女を同伴すれば間違いなく圧迫面接となるので止めた。
そして庁舎のバルコニーにて、ジンはマルレーネの娘との対面を果たしていた。とんでもないブスだったらどうしよう、とジン(素)は内心で戦々恐々としていたのだが、そんな懸念など吹き飛んでいった。そこにいたのはアンネリーゼとは対照的な、おっとり系の美少女。彼女はジンを見ると、ワタワタと慌てたあとにペコっと頭を下げた。
(まるで憧れの人にサプライズで会って、リアクションに困ったみたいだ)
などと、この世界では通じない感想を持つ。
「は、はじめまして、魔王様。わたしは淫魔種の種長であるマルレーネの娘、ユリアです」
「ジンだ。よろしく」
「は、はい。こちらこそ」
互いに軽く挨拶すると、料理が運ばれてくる。作法はフランス料理のそれだったので、何度か食べた経験のあるジンはあまり苦にしなかった。だがユリアはあまり慣れないのか、それとも魔王を前にした緊張からか、ちょこちょこ失敗していた。そして何度目かの失敗のあと、項垂れる。
「うぅ。今日は失敗ばかり……なんでぇ」
そんな呟きがジンの耳に届いた。
「ユリア」
「ひゃ、ひゃい!?」
名前を呼ばれて驚いたのか、ユリアは噛んだ。それによりまたしても赤面する。だがジンはスルーして訊ねた。
「そなたは余について、マルレーネからどのように聞かされている?」
「え? 母からですか? 完全無欠の素晴らしいお方で、歴代最高の魔王様だと。ですのでわたしを魔王様の寵姫にできることはこの上ない名誉だと。もっとも、常々自分がなりたかった、と愚痴ってはいますが」
ユリアは仕方ないな、といわんばかりに苦笑する。苦笑とはいえ、笑みがこぼれたのはいい兆候だ。少しは緊張もほぐれただろう。糸口は掴んだ。ジンは控えているメイドたちを下がらせ、仕上げにかかった。
「では敢えて言うが、余はそのような完璧超人ではないぞ? もしそうならば、今日この時間にここにいることはないからな」
そう言ってジンは今回の旅行は当初の予定を大幅に無視したものになっていることを教えた。帰ったらマリオンにこっぴどく叱られるだろうということも。
「ーーというわけだが、これでもまだ完全無欠の存在といえるか?」
「ふふっ。ダメですよ、魔王様。羽を伸ばしたくなるお気持ちはわかりますが、ご迷惑をおかけするのは」
「ユリアはそのようなことはないのか?」
「……」
ジンの返しにユリアは顔を背けた。心当たりがあるらしい。もう少し弄ってもよかったがーーアンネリーゼならそうするーーまだ初対面なのでジンは自重した。限度が測れない。
「まあつまり、世の中に完璧な者などいないわけだ。ーーこれで少しは緊張も解けたかな?」
「え? あーー」
ここで唐突になされたネタばらしに、ユリアはしばし呆気にとられる。頭が事態を把握できていないらしい。そしてしばらくして理解が及ぶやーー椅子に座ったままだがーー平服した。
「申し訳ございません! 魔王様のお手をわずらわせるなんてーー」
「まあそうかしこまるな。落ち着け。いくら人目がないからといってそんな風にされるのはあまり好かん」
「あ、すみません! すみません! この程度ではダメですよね。今地面にーー」
「だから違う!」
ジンがどうしてほしいのかを三十分ほどかけてこんこんと話して聞かせた。そしてようやく納得させる。
(しかしこの子、考え方が極端で、重いな)
それがジンのユリア評だった。彼女の重さはこのあとの言葉にもよく表れている。
「本当に申し訳ありませんでした! かくなる上は誠心誠意、お仕えいたします! わたしはお世継ぎは作れませんが、見目麗しい姫を産みます! 何人でも!」
「あ、うん……」
そこまで深刻に捉えなくてもいいのだが、干渉するのは止めた。疲れるから。
「一刻も早く初情を迎えて、魔王様のお子を作ります!」
ジンが嘆息する横で、ユリアは張り切っていた。
そしてこの話のオチ。
ユリアの純真な願いに神が応えたのか、翌朝、ジンは彼女が初情を迎えたことを報された。もし神が応えたというのなら、それはあのクソ女神に違いない。ジンは殺気を込めて天を睨めた。その視線に当のクソ女神は怯えていたとかいないとか……。




