獄炎の法~55~
丞相となった景隆は我が世の春を満喫していた。閣僚や泉春宮の官吏を己の派閥で埋め尽くし、泉国の政治を思うままにしていた。表向きの政治は勿論、かねてより行っていた公金の横領も規模が大きくなっていき、ついには公然と公金によって自らの離宮を建てることを計画するようになった。
「泉春は泉国における政治と経済の中心地です。ですが、泉春だけに政治経済の機能を集中させるのは危険です。思い返してください。五十年前、無礼にも泉国に侵略してきた翼国軍によって泉春は包囲されました。この時、国主以下武人も文官も泉春に逼塞し、有効な反撃手段ができませんでした。その反省を踏まえて雲陵の地に政治機能の一部を移すべきではないかと考えています」
景隆は尤もらしい理由をつけて、泉春と泉冬のちょうど間に位置する雲陵という土地に丞相府を作ることを提案してきた。
丞相府は丞相が政務をみる機関のことである。古来、泉国においては丞相は泉春で政務を執り行っているので外部に府を設けることはなかった。他国では数度、その例が見られたが、いずれも丞相家の専横を生み短命で終了している。
この提案を聞かされた泉勝も当然ながら景隆が政治を専横することを警戒した。景隆が丞相府を建てる場所として示した雲陵は景隆の食邑がある土地である。景隆がひとたび政治的権限を泉春から持ち出せば、二度と返さぬのは明白であった。
『おのれ、景隆!調子のりよって!』
泉勝は心の中で毒づくのが精一杯だった。今の泉春宮における景隆の権勢は泉勝をも震わすほどだった。下手に楯突けば、平然と泉勝を国主から降ろすことをするだろう。太子である泉回はすでに成人しており、泉勝が夏光に近かった反発なのか景隆と誼を結んでいる。二人が結託すれば泉勝が国主の座を追われるのも容易い状況になっていた。泉勝は感情を押し殺しながら時間稼ぎをするしかなかった。
「良き案であろう。しかし、政治機能の一部を移転するとなれば国家事業だ。閣僚達とよくよく相談して素案をまとめるように」
泉勝は朝議でそのように指示しながらも、景隆を排斥する手段を考えねばならなかった。
この時期、泉勝が密かに政治的な諮問ができたのは夏音ひとりであったといっていい。
「情けないことよ。夏光が亡くなって一年あまり。こうも景隆の専横を許すとは……不甲斐ないし、夏光に合わせる顔がない」
ここ最近、泉勝は夏音を褥を共にすることが少なくなってきた。それは相手が夏音だけに限らず、後宮にいる寵姫達にも接する機会が減っていった。泉勝は明かに体力と気力を減退させていた。
「主上。気落ちなさらないでください。心ある者は主上に心を寄せ、丞相の専横を憎んでおります。今は耐え忍んでください」
「そう言ってくれるのは夏音だけよ」
泉勝は悲し気にため息をついた。今は耐え忍ぶ。夏音は泉勝にそう言い聞かせながらも、早々に手を打たねばならぬと思った。早くしなければ泉勝の体力と気力はさらに減退し、再起できぬかもしれなかった。
泉勝が相談できる相手が夏音だけであるように、夏音にとって相談できる相手は何暫しかいなかった。夏音は自分が主となった屋敷に何暫を呼んだ。
「主上が随分と気弱になられている。ま、今のように景隆が幅を利かしていれば無理もないだろう」
屋敷は夏音ひとりだけのものになって寂しくなっていた。侍女も何人か辞めさせており、従者は家宰を含め五人ほどしかいなかったが、密談をするには適した場所にはなっていた。
「私もやりにくい思いをしている。紀周塾の出身者だからな。敵を作らないように日々気を付けているよ」
「お前にそんな気遣いができるとは、泉冬で揉まれたか?ま、そんなことはいい。どうにかして景隆を追い落とし、主上をお助けする手段はないものか?」
夏音は自ら瓶を取って何暫の杯に酒を注いだ。給仕する侍女達を食堂から下がらせていた。
「ないわけじゃない」
何暫は事も無げに言った。夏音は目を丸くした。
「お前、簡単に言うなよ」
「簡単なことじゃない。実は泉冬にいる時に色々と調べていたんだ。景隆の息子である景白利が軍にいる時、かなりの不正を行っていたんだ」
何暫は蘆文洪と親しくなったことによって軍事関係の商人達とも知己になっていた。彼らは泉冬で商売をしていて、なかなか泉春には入り込めないと嘆いていた。
「景白利が右少将時代、泉春の軍事物資の決裁権を握っていた。彼はそれを利用して武具商人である柳商会から賂を受け取り、過大な架空取引をしているという疑惑がある。それはほぼほぼ真実らしい。いくつかの証拠も握っている。景白利がその調子であるから、景隆もきっと……」
「そういうえば……ちょっと待て」
夏音が食堂を飛び出していった。しばらくして帰って来ると一通の書状を握り締めていた。
「これは田知様が泉春を去る前に私に託したものだ。私が政治的に困難に直面したら開けるように言われた。今がその時だ」
夏音は書状を広げた。そこには蘇亥によって調べられた景隆の不正行為が細かに書かれていた。




