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七国春秋  作者: 弥生遼
獄炎の法
963/964

獄炎の法~54~

 泉春宮に戻った何暫は刑部次官に任じられた。この人事はかつて田知が大蔵次官に就任して以来の大抜擢となった。

 「何暫なる人物は泉冬で蘆将軍をよく助け、例の非戦闘員殺傷事件では何暫の助言を容れて将軍は判断を下したと聞く。そのような逸材ならば次官にしても問題ではあるまい」

 泉勝は刑部卿を呼び出し、直接そのように要請した。この時の刑部卿は尾延。正式に卿となれたばかりの尾延が泉勝からの要請を断れるはずがなかった。

 「承知いたしました。そのような人物が次官であれば、私としても心強い限りです」

 尾延は口でこそ泉勝の要請を全面的に受け入れたが、内心では面白く思っていなかった。

 現在の泉春宮は景隆一派が幅を利かせていてる。その景隆は紀周塾出身者を目の敵にしている。実際に泉勝と夏光が進めてきた試験による官吏登用を中止しようとしている。しかし、これは泉勝が首を縦に振らないので保留とされているが、将来的には廃止される可能性が高かった。そのような状況下で紀周塾出身の何暫を抱え込むのは毒薬を抱いて眠る様なものだった。刑部卿になったばかりの身としては景隆に睨まれたくなかった。

 その一方で尾延は有能な部下を欲していた。かつて蘇亥という有能な部下の活躍によって卿だった甘美が失墜し、結果として尾延が刑部卿となれた。その経験があるから、優秀な部下を自分の中で囲っておきたいという欲もあった。

 「まぁ、いい。私の体内で毒になる様な男なら、さっさと放逐してくれる」

 紀周塾出身者が台頭している時代ではない。気に入らなければ放逐することなど造作でもなかった。


 次官となった何暫は淡々と職務をこなしていった。その仕事内容には一部の隙もなく、表情が乏しくでやや取っつき難いところはあったが、刑部省の評判はまずまず上々だった。

 「何よりも古今東西の法令や判例に通じている」

 というのが刑部省で最も評価された。ある時、先輩ながらも部下となった官吏が何暫を試そうとやや意地悪な質問をしてきた。その官吏が作り上げた嘘の法令についての意見を求めてきたのである。質問された何暫は迷うことなく、

 「三十年ほど前に界国で制定された商取引に関する法令ですね。しかし、それはあまりにも富商が得してしまうために二年で廃案になったはずですが……」

 何暫があまにも澱みなく言うため、その官吏は本当にそのような法令があったのかと思い、流石は次官でございます、と悔し紛れに世辞を言うと、

 「嘘ですよ。そのような法令はありません」

 何暫はそう言って立ち去っていった。その官吏は以後、何暫に話しかけることを憚るようになった。

 何暫は万事においてそのような調子であったから刑部省内で味方といえる存在はかつての上司であった甲華士ぐらいだった。

 「私は何暫が大出世すると思っていたよ。でも、まさか次官として帰って来るなんてね。私は先輩として鼻が高いよ」

 かつての上司は何暫の次官就任を手放しに喜び、進んでその下に着くことを望んだ。甲華士は次官補佐に就任していた。

 「私も勝手知ったる人がいてくれてありがたいです」

 「言ってくれるじゃない……あ、次官にこんな口の利き方したらまずいか」

 「誰もいないところではいいですよ。私は他者に敬意を強いることはしたくありませんので」

 何暫は終生、他者から尊敬を集めても、そのことで敬意を求めて自己を大きく見せることはなかった。人の組織や集団というものを無機質な構成物程度にしか思っておらず、後になってそのことが何暫という男の決定的な弱点となるのであった。

 「次官は人間関係に淡白ですね」

 「そうかもしれませんね。私は法家として国家運営の安定を企図して主上と国民の安寧のために働くだけです。その他のことは余事です」

 後世、酷吏となって泉国を震わせ、中原の歴史において恐怖の対象としてみられるようになる何暫であったが、彼を擁護する者達は口を揃えて何暫に私利私欲がなかったことを主張している。何暫は国家を安定させるには法による恐怖で国身を縛るしかないという極論に達しただけで、そうすることで富を得ることもなければ、保身に繋げることもなかった。それらことも何暫からすれば余事に過ぎなかった。

 「……次官は好きな女性とかおられるんですか?」

 甲華士に問われて何暫は立ち止まってじっと甲華士を見返した。甲華士は恐縮した。

 「すみません。いらぬことを言いました」

 「いえ、貴女の口からそのような言葉が出てくるとは思っていなかったので……」

 結局、何暫はその問いには答えなかった。胸に秘めたる思いはあったが、それは決して実ることない関係であると知っていた。



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