獄炎の法~50~
屋敷に着くと何暫は居間に通された。そこには俯いている夏音が座っていた。
「夏音。お悔やみを申し上げる。その……何と言うべきか……」
「座ってくれ、何暫」
何暫は黙って夏音の正面に座った。
「お父様の葬儀に参列してくれてありがとう。泉冬から遠かっただろう」
夏音が顔を上げた。憔悴している顔つきだが、涙は見えなかった。
「私のことはいい。それよりもこれから大変だろう。私にできることがあれば何でも言ってくれ」
「ありがとう。だが、私は夏家の主として一年間服喪しなければならない。しばらくはこの家でじっとしているだけだ」
夏音は少し笑った。その笑いには少し暗さがあった。
「そうか……」
「お父様がいなくなったことで何人かの侍女には暇を出さなければならなくなった。家宰と数名の侍女だけになる。この屋敷も随分と寂しくなるが、服喪にはちょうどいいかもしれないな」
夏音は寂しいのだ、と何暫は思った。堪らなく寂しく、その孤独に耐えられないから何暫を呼んだのだろう。
「酒でも飲むか?服喪に入れば、酒も飲めないだろ?」
「いや、いい」
気を利かせたつもりの何暫だったが、夏音は断った。何暫はどうしていいか分からなかった。きっと夏音も呼ぶだけ呼んだだけで、何暫にどうこうしてもらおうと思っていないのかもしれない。単にそこにいてくれればいいということなのだろうか。何暫は黙って夏音を見守った。
「私は官吏になりたかった。それはいずれ私がこの夏家を継がねばならないという意識もあったからだ。私はお父様の背中を見て、それに憧れていたのかもしれない」
私はお父様に認めてもらいたかったんだ、と夏音は我慢しきれなかったかのように堰を切って泣き出した。どうしていいか分からない何暫は本能的に立ち上がり、夏音の隣に座った。
「私は独りになってしまった……」
これまで何暫は夏音の気分が沈んでいる場面に何度か遭遇した。これほどまでに打ちひしがれている夏音を見たことはなかった。
「お前は独りじゃないさ。少なくとも私がいる」
何暫は思わず夏音の手を握った。ぱっと顔を上げた夏音は涙で顔をくしゃくしゃにしながらもじっと何暫の瞳を覗き込んでいた。
「丞相は認めてくれているさ。主上の秘書官にまでなったんだ。認めない方がおかしい」
「いや、それは違うな。主上は私の才能ではなく、女として見ている。まだ女として求められていないが、お父様はそう見ていた」
私はその程度だ、と夏音は自虐的に笑った。泉勝が夏音を女として見ている。その言葉を聞いて何暫の胸が騒いだ。夏音からそんな艶めかしい話を聞かされるとは思っていなかった。
「それは……なんと言えば……」
何暫が駆けるべき言葉に迷っていると、夏音が急に手を伸ばしてきた。その手が何暫の頭を優しく包むと顔を近づけ、何暫の唇に自らの唇を押し当てた。
「夏音……」
あまりの出来事に驚きを隠しきれない何暫に夏音は飛びつかんばかりに抱き着いてきた。
「今晩だけでもいい。私を女として見てくれ。不毛ななれ合いかもしれないが、私を慰めてくれ」
夏音はきっと弱っている。何暫に男を求めたのも気の迷いかもしれなかった。だが、夏音の求めを断れるほど何暫は朴念仁になれなかった。勢いのまま夏音を抱きしめると、彼女の唇を荒々しく吸った。
初めて同士の情交はぎこちなさを顕にしながらも、官能的で二人の愛を確かめるには十分だった。二人がお互いへの愛を出し切った頃には空が白み始めていた。
「一年……いや一年半待って欲しい。服喪が明けたらお前を泉冬から必ず呼び戻す」
夏音は顔を何暫の胸に預けながら力強く言った。もう涙は見えなかった。
「私はもう迷わないし、振り向かない。絶対に私は丞相になってお父様の跡を継ぐ。そのためには何でもやる。だから私を助けて欲しい」
「当たり前だろ。私はお前を独りになんてさせない」
何暫は夏音に髪に優しく触れた。夏音は体を伸ばし、何暫に口づけした。
「やろう。私たち二人で。泉国を中原最高の国にしよう。それが紀周塾魂だ」
これより三日後、夏音は服喪に入り、何暫は泉冬へと帰っていった。




