獄炎の法~47~
翼国軍を撃退してから半年。泉国で再び激震が起こった。次の激震地は泉春であり、翼国軍の侵攻よりも深刻なものだった。丞相夏光が病に倒れたのである。
その日、普通に職務をこなしていた夏光が帰宅しようとしていると、
「ちょっと」
と言って執務室の寝台椅子に横になった。
「お疲れが出たのでしょう。少しお休みになられてからご帰宅ください」
一緒に仕事をしていた属僚達は日頃の疲れが出たのだろうと思い、さほど気に留めず執務室を後にした。夏光自身も単なる疲れであると思っていた。丞相に就任してからこの方、全力で突っ走て来た。時々疲れを感じることはあったが、病気に罹ることもなかった。だからこれも単なる疲れで、しばらく横になっていればましになるだろうと考えていた。
だが、三刻ほど経って、気になった属僚の一人が夏光の執務室に戻ると、夏光はまだ寝台椅子に横たわっていた。しかも額に大粒の汗をかき、苦悶の表情でうんうんと唸り声をあげていた。只事ではないと感じた属僚はすぐに医者を呼び、夏光の私邸にも連絡することにした。
泉春宮に詰めている典医が駆けつけてきた。
「ひどい熱だ。体を冷やし、熱を下げる薬湯を煎じましょう」
典医は慌てることなく適切に処置を行った。しばらくして夏光の汗は引き、顔も穏やかになっていった。そこへ夏音が到着した。
「お父様!」
夏音は寝台椅子に横たわっている夏光に縋りついた。夏光は目をあけて笑った。
「おおげさだ。少し疲れが出ただけだ」
よかった、と夏音はわずかに浮かべた涙をぬぐった。
「もうしばらくここでお休みください。後で精のつく薬湯を煎じて差し上げます」
そう言って退出しようとした典医は夏光の死角から夏音を手招きした。夏音は表情を隠して典医に従い執務室の外に出た。
「御典医様、お父様は……」
「お疲れのための発熱なのか、病による発熱なのか。今の段階では判断できません。しかし、事前に頭痛を発症されていたようですから、病の可能性が高いと思われます」
夏音は息を飲んだ。典医は深刻そうな夏音を気遣って表情をやわらげた。
「とはいえ、すぐにどうということはないでしょう。しばらくは安静になさってください。後日、ご自宅に往診いたします」
頼みます、と夏音は声を落とした。
夏光はしばらく自宅で静養することになった。発熱をすることはなかったものの、度々頭痛に悩まされることになり、職務の遂行が困難になっていた。そこで夏光は丞相の職を辞そうとしたが、
「重い病でもあるまい。いずれにしてもお前がおらねば余が困る。しばし休職として丞相の職は太子に代行させよう」
太子の泉回はすでに成人していた。凡庸ではあったが、人並みの能力を有していたので、名誉職的に代行させても問題はないというのが泉勝の判断だった。
その泉勝は夏光が病に伏してから定期的に使者を派遣しては夏光の見舞いを行い、自ら泉勝の自宅に赴くこともあった。
「丞相、すぐに良くなる。泉国の名医を当たらせているのだ。心配あるまい。お前がいなければ余が困るのだ。快癒して再び泉春宮に立つことを祈っているぞ」
泉勝と夏光は二人三脚で泉国の復興に務めてきた。謂わばお互いが半身を共有しているようであり、これを失うことは泉勝にとっては体の半身をもぎ取られるようなものだった。
「無論でございます。主上の念願である翼国への復讐を果たせねばなりません」
「ああ。お前が泉春におればこそ、余が戦場に立てるのだ」
泉勝は夏光の手を握って激励した。
「畏れ入ります。もとより私は職務に戻るつもりおりますが、主上の秘書官となった娘のことをお頼みいたします。あれは人付き合いが悪く、これから苦労するでしょう。その時、助けになるのは主上をおいて他にありません。ぜひともよろしくお願いいたします」
「はは、不吉なことを申すな。言われるまでもなくそのつもりでいる。だからお前は病を治すことを考えてくれ」
「ありがたき幸せです」
夏光は泉勝の手を力強く握り返した。それほどの力があるなら問題あるまいと泉勝は安心していた。




