獄炎の法~41~
翼国軍先遣の五千名を率いるのは趙理季。左大将の地位にありながらも、他の将兵同様に今回の出師に疑問を持ち、軍中の厭戦気分を理解していた。
「このような状態では勝てる戦も勝てん」
将兵の士気はすこぶる悪い。いくら数に勝る戦をしても、将兵に戦う気力がなければ意味がないのは戦場に立つ者ならば誰しもが知るところだった。
『それが分からぬ国主は余程の阿呆だ。図体ばかりでかくて頭は使い物にはならんらしい』
そのようなことを声を大きくしては言えない。翼国軍の将軍である以上、国主の命令とあれば出師しなければならない。心の中で悪態をつきながらも、国主が勝手に始めた戦に真面目に付き合う必要もないと思っていた。
『阿呆の国主に戦を仕掛けられて泉国も哀れだ。我らの面目を立てたところで退いてやるか』
泉国北部の邑をひとつでも取れば羽武は満足するだろう。趙理季はその程度に考えていた。
厭戦気分にある翼国軍に対して泉国軍の士気は高かった。自分達の領土が再び侵されようとしているのだから当然であった。これを利用しない手はないというのが蘆文洪の考えだった。
「よく聞け。卑劣にも翼国は我が国を侵略しようとしている。先の大戦では両国が係争する理由が多少なりともあったが、この度の戦ではそれがない。翼国の兵士が一歩でも我が領土に入れば正義は我々にある。間を置かずして主上が援軍を送ってくださる。我らが負けることはない。存分に戦え!」
蘆文洪はそのような訓令を出しつつ、国境線を超えるまでは手を出さないことを全軍に徹底させた。
「相手は大軍だ。一気に攻めてくるのであれば、ここであろう」
蘆文洪は五十年前の大戦の詳細を調べ上げていた。その時の翼国軍は谷中を経由しつつ、草原地帯を抜けてきた。同じ経路を辿るであろうというのが蘆文洪の考えだった。一方で斥候を広く出し、翼国軍が侵攻してくる地点を探らせた。もし、相手が奇策を好むであれば、思わぬ地点を選んでくる可能性もある。
『蘆将軍は用心深い』
本営にいて采配を無言で見守っている何暫は蘆文洪という将軍に面白みを感じていた。国都の首脳部に偽りの報告をする大胆さを持ち合わせつつも、小まめに斥候を出して情報を得ようとする繊細さがある。どちらが蘆文洪という将軍の本性か分からぬが、戦に対して無知な何暫であっても蘆文洪の振る舞いは安心していられた。
『そういう雰囲気が蘆将軍にはあるのだろう』
あるいは戦というものはそうであるべきなのかもしれない。門外漢である以上、何暫は黙して蘆文洪と将兵達のやり取りを眺めていた。
「貴殿は変わった男だな」
蘆文洪は蘆文洪で何も言わずにじっと自分達の作戦会議を聞いている何暫を奇異に思っていた。
「左様でしょうか」
「普通の文官は、大丈夫か、勝てるのかと聞いて来るし、時には作戦に口を差し挟んでくる。貴殿はそういうところが一切ないな」
「私は法官です。戦は門外漢ですから口を差し挟むのは無意味です。それに私が怖がって勝てるのならいくらでも怖がります」
「ははは。やはり愉快な男だ。戦場でそんな冗談を言えるのだから相当肝が太いな。武人としてもやっていけるだろう」
蘆文洪は冗談を言っていると思っているようだが、何暫は大まじめだった。
「何度も言いますが、私は法官です。法についてはここにいる誰よりも詳しいですが、戦については全くの素人です。だから何も言わぬのです」
「その思考ができれば武人にもなれるという話だよ。いや、その体では刀槍は持てぬだろうから、参謀なら務まるだろう」
まずは我々の働きを見ていてくれ、と蘆文洪は笑って将兵達に作戦行動の命じた。
蘆文洪は国境線付近に陣取った。翼国軍が長く連なって来ると判断した蘆文洪は陣を大きく南北に展開させた。侵攻してくる翼国軍を包囲するためだった。
「進軍してくる敵は漏れなく縦陣で来る。先の大戦の時もそうだった。我らはここで翼陣を敷いて迎え撃つ。私の命令があるまでは自分達の陣地を死守し、決して攻勢に出るな」
敵の攻勢を凌ぎに凌いで一気に反転攻勢するというのが蘆文洪の作戦であった。




