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七国春秋  作者: 弥生遼
獄炎の法
949/953

獄炎の法~40~

 蘆文洪は北部駐屯軍を率いて泉冬を発った。その数は三千名足らず。五千名をすでに準備し、それからさらに編成を急がせている翼国軍の規模から考えれば、三千名の兵力は少なすぎた。

 「敵軍五千名あまり、我が軍の領土を侵犯。臣はこれを迎撃するために出撃す。よろしく援軍を送りたし」

 蘆文洪はそのような報告を泉春に送っていた。この時点で翼国軍はまだ領土侵犯をしていない。その偽りを何暫が指摘すると、

 「どちらにしろ敵は領土を侵犯してくる。それが早いか遅いかだけの話だ。それにそのように報告しなければ、国都のお歴々は重い腰をあげない。戦場から離れている場所にいる連中はそういうものだ」

 戦をする上での方便だ、と蘆文洪は笑った。

 「法官の立場から申し上げれば、戦局における虚偽の報告は明文化されていません。ですが、このことが露見してしまえば、将軍に何かしらの罰則があるのではないですか?」

 「確かにそうだろう。だが、この噓の報告によって勝利したとなれば私は喜んで罰を受けよう。そちらの方が負けて罰せられるより遥かに軽微であるだろうし、武人としての本懐も成り立つ」

 蘆文洪が言わんとしていることは理解できた。武人というのはそのようなものなのだろう。随分と法官と違うものだと感心した。

 『軍法には柔軟性が必要だ。その将軍の個性によって変わってくる』

 たとえば将軍が虚偽の報告をした時、どのように罰せするべきなのか。すべての場合において罰するとなれば、蘆文洪のような柔軟性に富む思考が失われ、戦場において敗北の憂き目に遭うかもしれない。その一方で敗北しているのに将軍が国都を気にして勝っていると報告するのも問題なのである。

 「軍法とは難しいものです」

 「ほう。私としてはこれを機会に法官殿に軍法の明文化を期待したいのだがな」

 蘆文洪が思わぬことを言った。

 「法とは重いものです。そう簡単にはいきません。何よりも私の独断で法を制定することはできません。法とは閣僚によって協議され、主上の御名において公布されるものです」

 「そのようなことは分かっている。今言っているのは私の配下の軍に対しての法ということだ。法という呼び名が問題であれば、規則規律と言ってもいいかもしれない。いずれそのようなものがあればと常々思っているのだ」

 この言葉に何暫はやや意外な気がした。蘆文洪という将軍は威風堂々としており公正明大で配下の将兵からとても慕われていた。謂わば蘆文洪という将軍そのものが法を体現しているようであり、明文法などいらぬのではないかと思っていた。

 「それは違うぞ。軍は私の私兵ではない。いずれ私は北部駐屯軍から身を引くことになる。そうなって軍に規律が失われては意味がない」

 何暫の疑問に対する蘆文洪は明快に答えた。確かにその通りだ、と何暫は得心した。

 「仰る通りです」

 「いずれのこととなろうが、主上は翼国への討ち入りをかんがえておられている。その時のことを考えても全軍で統一した法令なり規則は必要なのだ」

 「将軍のお考え、尤もだと思います。少しでも将軍のお役に立てるように精進いたします」

 「そこまで肩ひじを張る必要もあるまい。ま、貴殿にとっては初陣だ。陣にいるだけでも何かと参考になろう」

 何事も見聞することだ、と蘆文洪は言った。こういう将軍ならば深く付き合っても悪い結果にはならないだろうと何暫は思った。


 翼国との国境線へと進軍する最中、何暫は軍中を歩き回った。将兵達は寸鉄帯びずに陣中を徘徊する文官を奇異に見ていたが、泉春から派遣されている刑部省の役人であると知られると、迷惑そうに眉を顰めつつも、表面上は規律を正した。彼らは法官である何暫が軍中の風紀を監査するためいるのだと思っていた。何暫はそのような将兵の煙たげな視線を明敏に察していた。

 『軍とは難しいものだ』

 何暫からすれば規律は守るのが当たり前である。守らない方がおかしいのである。だが、この陣中にいる兵卒達は規則を多少守らぬことで秩序を維持しているように思われた。

 「人の集団には多少の遊びが必要なのかもしれない……」

 後に天下を震撼させる酷吏となる何暫であったが、この時はまだその片鱗すら見せることはなかった。


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― 新着の感想 ―
 今のところですと、公正な将軍がいれば法はなくてもよいという何暫のほうが儒家的であり、統治者、指揮者が変わっても規律が保たれなくてはならず、そのために法がいるという蘆文洪は法家的な考え方をしていますね…
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