獄炎の法~39~
翼国の急激な動きを泉国側では朧気ながら察知していた。翼国に潜ませている間者から相応の規模の軍勢が泉国との国境線に集結しつつあるという情報が泉春に届けられていた。翼国が何かしらの軍事行動を起こそうとしているのは明確だった。だが、泉春宮の人々は首をひねっていた。
「今、翼国が我が国を攻めてくる理由がない」
というのが泉勝を筆頭とする泉国首脳部の共通した考えだった。泉国と翼国には因縁があるとはいえ、今は平穏を保っている。そして、両国の因縁の下になっていた谷中は単なる寂びれた寒村に成り下がった。客観的に見て大軍を繰り出す理由がどこにもなかった。
「単なる軍事演習かもしれない。下手にこちらも軍を動かして偶発的な軍事衝突があってはならない。我々はまだ翼国と本格的に戦をするだけの力はない」
泉勝は慎重だった。閣僚達もそれが妥当な判断であろうとして賛意を示し、泉国北部に駐屯している蘆文洪に警戒するように命じるだけだった。まさか羽武が泉国が攻めてくるかもしれないという恐怖心から軍を発したとは泉勝達も想像していなかった。
泉春からの連絡を受けるまでもなく、北部駐屯軍を預かる蘆文洪は翼国軍の動きを察知していた。
「翼国軍は攻めてくるつもりだ」
蘆文洪は武人として当然の判断を下した。蘆文洪が独自に仕入れた情報によれば国境線に集結しつつある翼国軍の規模は約五千名。さらなる動員も進めているという。軍事演習をする規模ではなかった。泉春から警戒せよという命令が届けられても、蘆文洪は無視を決め込んだ。
「警戒程度では深く侵略されてしまう。私は主上より剣と斧を授けられているのだ。我らも国境線に軍を進める」
こちらから翼国を侵すことはできないが、黙って見ていては翼国軍に領土深く侵攻されてしまう。敵軍が一歩でも泉国の領土に入ってくれば攻撃を仕掛ける気持ちでなければ、こちらがやられてしまうというのが蘆文洪の考えだった。蘆文洪は北部駐屯軍の出撃を命じた。
この出撃に伴い、蘆文洪は何暫に軍に帯同することを求めた。
「私は軍法について無知な部分がある。何暫殿には軍に帯同していただき、我が軍の軍法について色々と意見を聞かせてもらいたい」
蘆文洪からすれば、泉春から来た新任の地方官を多少の意地悪でからかうつもりだった。この時代、泉国軍には明確な軍法はなく、わざわざ法官を帯同させる必要はあまりなかった。実際に蘆文洪はこれまでも新任の地方官を軍への帯同を求め、断られ続けていた。蘆文洪としてはそれでも構わなかったが、何暫は軍に帯同することに同意したのだった。
「承知しました。私も軍法がどのように運用されているか実地として知りたかったのです」
何暫は本心で同意した。先述した通り、泉国軍では明確な軍法がなく、慣習としての規律規則が存在する程度だった。それがどのような形で運用されているのか。またそのような慣習法で十分なのかということを実地で検分しておきたかったのだ。
「大丈夫かね?戦場が怖くないのか?」
拍子抜けした蘆文洪は文官相手に妙な質問をしてしまった。自分から誘っておいて戦場への恐怖について訊ねるというのは、相手を馬鹿にしているようなものだった。
「私に刀槍を持って戦えと言うのであれば怖いですしお断りしますが、法官としての仕事ならば行くというまでです」
屁理屈を言う、と何暫の回答に蘆文洪は思った。だが、その言い様は決して不快ではなかった。寧ろ自分の職務い忠実であろうとする姿は、武人から見ても好感を持てるものだった。
「よろしい覚悟だ。常に本営の私の傍にいるがいい。そうすれば危ないこともないだろう」
「ありがとうございます」
何暫は蘆文洪の心がけに謝しつつも、本営が危なくなる可能性もあるだろうと思っていた。その場合、泉国軍は負けており、何暫の命も危うくなるだろう。それはそれで困ることだった。
「本営が危なくなる危険もあるだろう、と言いたげだな」
蘆文洪は少し笑った。見透かされた何暫は取り繕うとしたが言葉が見つからず黙るしかなかった。
「安心するがいい。今回は本営が危うくなるような戦争にはなるまいよ。法官には法官の仕事があるように武人には武人の仕事がある。ま、その仕事ぶりを見てくれればいい」
貴殿にも勉強になろうよ、と蘆文洪は何暫の肩を叩いた。




