獄炎の法~35~
何暫が官吏になり一年が過ぎた。まだ新人で雑用ばかりの仕事だが、官吏になって半年経つ頃には文書の作成を任されるようになった。
「各地の刑部官吏からあがってくる報告は雑多なものが多い。それを簡潔にまとめるのが新人最大の仕事だ」
甲華士はそう語り、何暫に一度やらせることにした。その文書が評判を呼んだ。普通であるならば一週間はかかるであろう内容を三日で何暫はまとめてみせた。添削した甲華士は、
「直すところが私にはまるで分からない」
と脱帽し、報告書を受けた刑部次官尾延も、
「過去にこれほど簡潔且つ要点を得た文書を私は見たことがない」
と新人が作った文書を称賛した。それから何暫は次々と文書作成を任せられるようになり、何暫の名前はわずかながら泉春宮で知られるようになった。
「当然のことさ。何暫は紀周先生の塾でも美文家として知られていたんだ。彼が作る文章の美しさには私も正直敵わない」
この話題の拡散に夏音は多少の貢献をしていた。何暫の文書が評判になると、さも当然だとばかりに何暫の名前を出して褒めた。自分が褒めればその分何暫の株も上がるというのが夏音の考えだった。
これを快く思わない者もいた。景隆と景白利などがそれである。彼らは蘇亥のことがあって以来、紀周塾出身の官吏をひどく警戒していた。
「あいつの醜聞はないのか?」
景白利などは景尚に何暫の弱みを聞き出そうとした。景尚は苦笑した。紀周塾出身者を嫌いながらも紀周塾出身の景尚に意見を求めているのがあまりにも滑稽に思えた。
「ありませんよ。何暫は実に面白みのない男です。活躍はするでしょうが、出世はできませんよ」
景尚はそう言って煙に巻いた。景尚は何暫を好敵手とみていたが、誹謗で追い落とすようなことをするつもりはなかった。
景親子よりも何暫について警戒している人物がいた。丞相夏光である。彼もまた蘇亥の一件で紀周塾出身者を警戒するようになっていたが、そのこと以上に何暫が夏音と同窓であり、親密であるということを気にしていた。
「音が懸想するとも思えんが、親密な男が周りにいるというのはどうにもよくない」
夏音と田知を婚姻させる計画は潰えた。それだけに今度こそは夏音を然るべき身分ある家へ嫁がせることを夏光は父として考えるようになっていた。そのためにも目障りとなる男は排除していかなければならなかった。
夏光は試験による官吏登用を実施するなど、政治面においては従来の身分制度に囚われない思想を持っており、それに基づいて政策を実施していった。しかし私生活、特に夏音の婚姻に関していえば、身分制度の呪縛から抜け出すことができなかった。田知を婿として迎えたいと思えたのがほぼ奇跡的と言えるほどだった。夏光は尾延を呼び出した。
「新たに配属された何暫という男はかなり優秀と聞く。後のことを考えて、地方官として修練させてみてはどうか?」
丞相である夏光に呼び出され、直々に要請された尾延は舞い上がった。
「私もそのように考えておりました」
「泉冬は彼の故郷なのだろう。故郷に錦を飾らすのもよろしかろう」
「流石は丞相でございます。下級官吏には勿体ない温情。私としても見習いたいと思います」
つまらぬところで阿る尾延を見て夏光は卿にはなれぬ男だと思った。
何暫に泉国北部の刑部省地方官就任の下命があった。泉春宮の官吏になってわずか一年と少しで地方官に任命されるのは極めて異例のことだった。
「凄いぞ!何暫!大出世だ!」
甲華士は我が事のように喜んだ。通常、地方官になるには最短でも四、年かかる。それでも早い方であり、十年経っても地方官になれない者もいた。
「私如きが地方官になってもよいのでしょうか。それほど官吏としての経験がないのに……」
「いいんだよ。そういう命令なんだから。あ、何暫が送ってくる報告書は私宛に送ってくれよ。君の報告書ならまとめる必要がないからね」
ははは、と甲華士は陽気に笑った。
認められたのならば嬉しいが、そうではないかもしれない。いくら何でも地方官になるのが早すぎるのではないか。どうにも不審が拭いきれない何暫は、出発までに夏音に相談してみることにした。




