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七国春秋  作者: 弥生遼
獄炎の法
943/961

獄炎の法~34~

 その日の晩、何暫達は夏音が足しげく通う順老人の食堂を訪れた。

 相変わらず狭い店内には客はいなかった。夏音が顔を出すと順夫人が嬉しそうに厨房から飛び出してきた。

 「まぁまぁ、姫様。お久しぶりです」

 「ご無沙汰してました。今日は三人です。飛び切りの料理を頼みます」

 順老人が厨房から手を上げて夏音の言葉に応じた。

 「はいはい。何暫さんもようこそ」

 「お久しぶりです」

 何暫と夏音が紀周の塾にいる時は二人でよく通っていたが、夏音が官吏になってからは二人で食事をすることもなくなり、何暫も一人で訪ねることもなかった。

 「夏音も久しぶりなのか?」 

 「半年ぶりかな。官吏になると泉春宮で取ることが多くなってしまった」

 今日は美食と美酒にありつこう、と夏音がいつものお気に入りの席に座った。甲華士は不思議そうにきょろきょろと当たりを見渡しながらゆっくりと着席した。

 「どうしました?」

 夏音がやや意地悪そうに聞いた。

 「いや、夏氏本家の姫様がこういう店に来られるかと思って……」

 「ここは姫様の家で働いていた料理人がやっている店なんですよ。姫様はその料理人の料理をいたく気にいっておられ、こうして辞められてからも通われていたんですよ」

 夏音に代わって何暫が説明をした。それを聞いていた夏音はくすくすと笑っていた。

 酒が運ばれ、食事が運ばれてきた。相変わらずの酒も料理も美味く、どうしてここが流行らないのか訪れる度に不思議に思うほどだった。

 「美味しいです!私も甲氏の端くれとしてそれなりに著名な料理人の食事を食べたことありますが、ここに勝るものはありませんでした」

 甲華士は一口食べては興奮し、一口飲んでは賞賛の言葉を並べた。


 どれほど時間が過ぎただろうか。終始楽しそうだった甲華士は完全に酔い潰れ、今では机を枕にして寝入っていた。夏音と何暫も随分と杯を空にしていたが、潰れるまでに至っていなかった。

 「田知様が泉春を去ったのは知っているな」

 顔を真っ赤にしている夏音が少し酒が残った杯の淵を撫でながら唐突に言った。

 「知っている。尤も、風聞程度のことしか知らないけど」

 「田知様は泉春宮で活躍された。しかし、それでも越えられない壁があると言っていた。その壁がどうしても越えられないと分かった瞬間、失望したらしい。それで政界から去られた」

 「越えられない壁か……」

 「きっと生まれのことを言っているのだろう。田知様は今の泉春宮では類をみない才人であられた。でも、紀周先生のついてきた門弟でしかなかった。公族貴族が支配する宮城ではその身分の差を覆すことが、田知様ほどの人でもできなかったということなのだろうか。残念ながら私には分からない」

 君には分かるか、と夏音は座った目で何暫を睨むように見つめてきた。

 「まだ私は官吏になって間もないが、そのうちそういう壁に突きあたるのだろうとは思っている。が、そうなってみないとどうなるか分からん」

 何暫は夏音と匹敵するだけの酒量を体内に入れているが、ほとんど酔っていなかった。どうやら何暫は上戸で酔わないたちらしい。

 「冷静だな、君は。実に君らしい」

 夏音はけたけたと笑った。

 「私は農家の出身だ。跡は兄が継ぐから、半ば口減らしのために勉強させられた。田舎の次男坊が生きていくには兄の下で小作人を続けるか、商人になるか、勉学して官吏になるしかなかった。私は人よりも多少学問ができたから官吏になる道を選んだ。たまたま泉春宮の官吏になれたが、なれなければ故郷に帰って地方の官吏になるつもりだった」

 何暫が語り始めたので、夏音は黙って聞いてくれていた。

 「私は大それた野望も夢も持っていない。私が官吏になることで世の中が少しでも良くなればいいと思っている。私にとっての官吏になったというのはその程度のことだ。夏音や田知様ほどのことはできないよ」

 「そんなことを言うなよ。私は君と大きなことをやりたいと思っている。いや、やらねばならないと思っている」

 夏音がまだ少し残っている何暫の杯に酒を注いだ。

 「私と夏音で?」

 「そうだ。他の誰とでもできないと思っている。それが紀周塾魂ってものだろ?」

 「初めて聞いたな、それ。景尚もいれてやれよ」

 「あれは駄目だ。他でもない君なんだ」

 やろうぜ先は長いんだ、と夏音が何暫の手を取った。その手の感触は柔らかい女性のものだった。

 

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