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七国春秋  作者: 弥生遼
獄炎の法
942/958

獄炎の法~33~

 刑部省の部屋で挨拶を終えた何暫は、甲華士に連れられて他の省庁へ挨拶に出向いた。どの省庁の部屋も卿も次官も不在で人員そのものも少なかった。

 「さぁ、最後は大蔵省だ。あそこは大人数だけど、どれほどいるかな?」

 甲華士が扉を叩いてそっと開けてみると、刑部省の部屋よりも大きな空間にほとんど人影がなかった。だが、扉のすぐ傍で待ち構えていたかのように腕を組んで立っている人影があった。

 「待っていたぞ、何暫。所属は違うが、私は君が泉春宮に来るのを心待ちにしていた」

 その人影は夏音だった。何暫が来るのを今か今かと待っていたようだった。

 「わざわざ待っていたのか。暇だな」

 何暫は憎まれ口をたたきながらも嬉しかった。この泉春宮の中で唯一何暫がよく知る人物だった。

 「か、夏音様と知り合いなのか?」

 甲華士があわあわと驚きを見せながら訊いてきた。

 「ええ。塾で同窓でした」

 「貴女は甲華士さんですね。何暫を頼みます。無愛想ですが、とても優秀な男です」

 夏音は甲華士のことを知っているようだった。承知しました、と甲華士の声は上ずっていた。

 「また連絡するよ。折角だがら祝勝会でもしよう」

 「君のおごりならな」

 当たり前じゃないか、と言って夏音は書類を抱え部屋に奥へ行ってしまった。

 他の大蔵省の官吏への挨拶を終えた何暫は刑部省の部屋に戻った。その道中、甲華士は夏音について質問を重ねてきた。

 「何君は夏音様に親しんだな」

 甲華士はやや興奮していた。甲華士からすれば甲氏の人間とはいえ、夏氏の本筋にあたる夏音は雲上人に相応しい。しかもその夏音が自分のことを覚えていたのである。興奮するのも無理なかった。

 「紀周先生の塾の同窓ですからね。それだけですよ」

 「そうか?同じ同窓の景隆には随分と冷たいぞ」

 「塾でもそうでしたよ」

 「夏音様は泉春宮の官庁でも注目の人だ。夏丞相の娘であるし才人でもある。この一年、誰かと親し気にしていたなんて聞いたこともなかった。だから、驚くんだよ」

 「同窓ですからね」

 何暫からするとそうとしか言えなかった。

 「同窓ね……なぁ、もし夏音様と食事することがあれば、私も連れて行ってよ。一度でいいから夏音様とちゃんと話しておきたいんだ」

 「夏音がいいって言うならね」

 やった、と言って甲華士は何暫の背中を叩いた。


 翌日より何暫の官吏としての日々が始まった。基本的に新人の仕事は雑用だらけであり、各地からあがってきた報告書を甲華士がまとめるのを手助けするのが主な仕事になった。紙や筆を倉庫から持ってきたり、他の省庁に使いをしたり、指定された書物を探したりとその仕事内容は実に多岐に及んだ。

 何暫はこのような仕事を苦に思わず淡々とこなした。もとより黙々と勉学に励んできた何暫からすれば寧ろ得意とするところだった。

 「つまらないと思っていないか?」

 昼休憩の時、甲華士がやや心配するように訊いた。

 「そうは思っていません。何事も学びです。古の高潔な隠者は日常生活の一つ一つが行であると説いていました。界国の高名な隠者である淑双は朝起きて顔を洗うところから就寝する時に歯を磨くところまで全てが人生の修行であると説きました。今の私はまさに淑双の心境です」

 「よく分かんないなぁ」

 「淑双を知らないんですか?」

 「知らないよ。知っている方が不思議だ」

 「刑部省の書棚にも淑双の著作がありますよ」

 「へ?そうなの?よく見てんね」

 「華士さんが知らなさすぎですよ」

 「うちの先輩官吏でも知らないと思うよ」

 「淑双は美文が多いんですよ」

 変わってんね、と言って甲華士は薄い茶を啜った。

 「変わっている変わっている。大いに変わっている」

 背後から声がすると思ったら夏音だった。

 「刑部省の食堂まで何の用だ?」

 「使いの帰りだ。私も昼食と思ったんだが、君達はもう終わりか。今度にしよう」

 夏音が同じ席に座った。緊張で硬直している甲華士がいなければ、紀周塾のあの頃に戻ったようだった。

 「いや、昼食はいいや。今晩の夕食に付き合ってもらおう」

 「急だな」

 「急に誘わないと君は諾を言わないだろう」

 これも塾の頃と変わらぬやり取りである。何暫は少し懐かしくなった。

 「あの店で君の奢りなら行くぞ」

 官吏合格の祝勝会だ、と夏音は言った。

 「あ、あの。夏音様。私もお供してよろしいでしょうか?」

 声を裏返らせながら甲華士が立ち上がった。夏音はくすっと笑うと、勿論ですよと言った。

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