獄炎の法~32~
何暫は晴れて泉国の官吏となった。奇しくもと言うべきか、何暫は刑部省に配属された。蘇亥の死で人員に不足があるというのと、試験の答案の内容から法に詳しいと判断されたためであった。
「私が刑部次官の尾延だ。今は卿がいないので代理を務めている。主上に忠誠を誓い、職務に励むように」
刑部省に配属された何暫はまず尾延に挨拶をした。尾延はやや訝しそうに何暫を見ながらも定型文のような言葉を並べた。
尾延が快く思っていないのは当然であろう、と何暫は思った。尾延が蘇亥と組んで刑部卿であった甘美を追い落としたのは、もはや誰もが知るところだった。その蘇亥が賊に襲われて亡くなり、代わりとして同じ紀周の門弟が部下としてやってきたのである。あまりいい意味ではない運命を感じているはずだった。
「主上に終生忠誠を誓い、社稷のために職務に励みます」
「よろしい。君は法令について詳しいようだが、官吏としては新人だ。彼女の下について色々と学ぶがいい」
尾延が何暫の教育係に指名したのは女性だった。何暫よりも五歳ほど年上だろうか。背が高く、夏音とは別の雰囲気で目を引く女性だった。
「甲華士です。よろしく」
よく通る溌剌した声だった。すっと右手を差し出され、何暫は気圧されながらも握手に応じた。
「何暫です。よろしくお願い致します」
「彼女は民衆法の中でも刑法を担当している。良く学ぶことだ」
以上だ、と言って尾延は二人に退出を促した。甲華士はふんと鼻で笑いながら、職場に案内しようと何暫を誘った。
「もうちょっとらしい訓示でも垂れればいいのに。どうせこれから社交界にでも顔を出すつもりなんだよ。最近は刑部省の仕事よりも、そっちのお仕事の方に夢中だからさ」
甲華士は何暫が聞きもしないのに尾延のことをぺらぺらと喋った。何暫は適当に相槌を打っておいた。
「君は紀周塾の出身だったね?」
「はい。そうですが……」
「じゃあ、優秀だね。色々と頼らせてもらうよ」
甲華士は大きく口をあけて笑った。紀周の塾の出身だから悪い意味で見られると思っていたが、甲華士についてはどうも違うらしい。何暫はそれほど多くの女性を知っているわけではないが、どうも何暫が知る女性の型に嵌っていなかった。
「甲様はあの甲家の血縁者ですよね?」
甲家は景家と親類関係にあり、家勢としては景家夏家に劣るが、それでも泉国における有力者の一角だった。
「そうだよ。と言っても端の端だからね。縁故でなんとか官吏になれただけで、そういう意味では景尚と同じだよ」
何暫と同窓であった景尚は今年になって縁故で官吏に登用されていた。
「甲様は景尚をご存じなんですね」
「そりゃそうさ。同じはみだし者だからね。こう見ても仲はいいのさ」
私の方がお姉さんだけどね、と甲華士は続けた。
「はみ出し者ですか……」
それでも有力者一族の中にいるわけである。何暫は羨ましいとは思わなかったが、楽な人生を送れるのだろうなとぼんやりと思った。
「だからさ、甲様なんて堅苦しく呼ばないでよ。華士でいいよ。泉国には夏氏も景氏も甲氏も多いんだから」
「はぁ。承知しました」
「承知しましたなんて本当に堅いなぁ。まぁ、その辺は追々ならしていくか。さて、ここが我らの職場だ」
と言って甲華士が扉を開けた部屋には数十の机が並び、書棚が林立していた。しかし、人の数は少なく、四名の男性官吏が机に向かって筆を走らせていた。甲華士と何暫が入って来たのに気が付くと軽く会釈した。
「少ないんですね」
「本来は二十名ほどいるんだけど、地方担当者はずっと出張に出てるか、あるいは駐留している。泉春の担当者でも関係のある省庁と要談するために出ている場合があるからね。大体こんな感じさ」
刑部省の官吏の主な仕事は、国内で施工されている法令が順守されているか、現実の生活に適応されているかを検分することにある。そして必要であれば現実に即した法令を作成することもあった。
「華士さんは何の担当なんですか?」
「私はまだ三年目だぞ。担当なんてまだないよ。他の先輩官吏からあがってくる報告書を精査してまとめるのが仕事だよ。君もしばらくはそういう仕事になる」
担当を持つのは官吏になってから五年後とかの話さ、と甲華士は言った。これからの長い官吏人生を思えば、五年なんてあっという間なのだろうと何暫はぼんやりと思った。




