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七国春秋  作者: 弥生遼
蜉蝣の国
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蜉蝣の国~14~

 「それでも主上は私を娼婦から救い出してくれました」

 雲華は樹弘の胸に顔を押しつけながら言った。

 「雲華さん……」

 「別にそのことを今更否定するつもりはありません。生きていく術としてそれしかなかったわけですから。しかし、年が経てばやがてできなくなり、私や娘は飢えてしまいます。主上が真っ当な仕事で長く生きていけるようにしてくださったのです」

 顔を上げた雲華は、そのまま背を伸ばして樹弘の顔に近づき、唇を吸った。蕩けるような唇の感触によろけた樹弘は寝台に倒れ込んだ。樹弘の体に覆いかぶさるようにして身を寄せてきた雲華は徐に服を脱ぎ出した。

 「お嫌でしたら、このまま去ります。そしてこの瞬間のことを忘れてください。でも私は礼とかそういうことではなく、せめて一夜、貴方に抱かれたいのです」

 雲華は泣いていた。その涙の意味を樹弘は理解できなかった。

 『これが恋なのかもしれない』

 ただぼんやりとそう感じた。それが雲華が自分に向けている恋心なのか、自分が雲華に対して抱く好意なのか判然としなかった。ただ、この愛らしい人を男として抱かねばなるまいとそれだけは明確に思った。

 露わになった乳房に手を触れると、雲華は小さな吐息を漏らした。その表情はあまりにも艶めかしく、こういう女性は今の樹弘の周りには一人としていなかった。

 樹弘とて一介の男である。人並みに性欲はあるし、女性の体に対する憧れも当然あった。しかし、あの娼屈で雲華を抱いてからは、樹弘は異性としての女性を遠ざけてきた。特に真主であることが分かり、景朱麗達に奉戴されてからは、意図的に遠ざけてきた。樹弘が国主となった瞬間、色欲に目覚めたとしたら、多くの人が失望するだろうと思い、ずっと自戒してきたのだった。

 だが、今は樹弘というひとりの男でしかない。愛しく思える人の求めを拒否したくなかったし、自らも求めたくなった。

 『案外、僕は孤独なのかもしれない』

 おそらくは生まれて初めて女性に対して異性としての好意を持ったのかもしれない。それは肉体関係が見せる幻惑なのかもしれないが、一夜限りのこととはいえ、樹弘にとっては忘れ得ぬ経験となった。


 翌朝、目覚めて食堂へ向かうと、雲華が使用人達にきびきびと指示を出しながら働いていた。

 「おはようございます、樹さん。朝食にされますか?」

 雲華は昨晩のことなどまるで忘れているかのようであった。樹弘はやや未練のような感情を抱きながらも、自分も普通に振舞うことにした。

 「うん。それと今日立ちます」

 いつまでもここにいるわけにはいかなかった。わずかに寂しげに視線を落とした雲華は、そうですか、と小さく呟いた。

 「どちらに行かれるんですか?」

 「ひとまず桃厘へ」

 雲華の問いに答えると、樹弘の前の席に一人の女性が座った。同じ歳くらいだろうか。綺麗な顔立ちをしていたが、挑みかかるような視線を樹弘に投げかけていた。

 「私も桃厘に行く」

 女はそれだけ言って朝食を食べ始めた。突然のことに樹弘が唖然としていると、私は紅蘭だ、と名乗った。

 「は、はぁ……」

 「私が名乗ったんだから君も名乗ったらどうだ?」

 紅蘭という女性の偉そうな態度にむっとした樹弘であったが、答えずにいるとしつこく問い質してきそうなので素直に応じた。

 「樹弘」

 「ふん。真主と同じ名前なんだな」

 「樹という姓も弘という名も珍しくないだろう」

 偽名を名乗るつもりのなかった樹弘は、ちゃんと心算をしていて慌てることなく切り返した。

 「まぁそうだろうね。真主様がこんな所をほっつき歩いているわけないよな」

 紅蘭の言葉に給仕していた雲華がわずかに笑った。

 「私も桃厘に行くんだ。一緒に行こう」

 そういうことか、と樹弘は合点した。ただ、紅蘭が単に道連れが欲しいだけなのか、それとも樹弘の素性を怪しんでのことなのか、判断がつかなかった。

 「別にいいけど……」

 樹弘は嫌そうに顔を歪めながらも、わざわざ樹弘との道連れを求めた紅蘭に興味を持った。この女性がどういう素性でどういう意図を持っているのか、道中の暇つぶしにしては面白いと思った。

 「樹弘。俺も連れて行って欲しい」

 樹弘と紅蘭の会話に突如、雲札が入ってきた。彼はすでに旅装を整えていた。

 「兄さん……」

 「許してくれ、華よ。真主のおかげで真っ当で平穏な暮らしができるようになったが、どうにも俺の肌には馴染まない」

 生活を守るために戦ってきた雲札にとって、今の生活はあまりにも刺激がないのだろうか。

 「駄目ですよ、雲札さん。あなたがいなくなったらこの店は誰だ守るんです」

 樹弘ははっきりと反対した。雲華のことを思うと思い留まらせるべきであった。

 「優秀な使用人がいるし、あの時のように賊に襲われることはない。それに俺がいても役には立たない。どうも接客とかには向いていないらしい……」

 雲札には雲札の苦悩があったのだろう。それを考えると無碍には断れなくなってきた。

 「私はいいよ。旅の道連れは多いほうがいい」

 紅蘭は聞いてもいないのに応えた。樹弘は雲華に視線を送った。

 「兄さんの好きになさってください。私達は兄さんに守られてきました。それが兄さんの人生を縛ってきたのなら、これからは兄さんの好きに生きてください。これも真主が与えてくださった恩恵です」

 そう言って雲華は目配せした。樹弘は折れるしかなかった。

 「分かりました。でも桃厘までですよ。それからのことは僕も考えていませんから、必ずここに帰ってくださいね」

 ありがてえ、と雲札は頭を下げた。

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