獄炎の法~29~
蘇亥の死と田知の下野は泉春宮に暗い影を落とした。特に試験によって官吏に登用された者達からすれば、希望と期待を一身に集めていた二人がいなくなってしまったというのは自分達の前途を占っているようで落胆を隠せずにいた。それは同時に喜悦する者達もいるということでもあった。
「邪魔者二人をまとめて消すことができました。これで父上も安堵されたことでしょう」
喜悦した者の中に景白利がいた。父である景隆共々、新進気鋭の若い二人の官吏は邪魔者以外の何ものでもなかった。
「危険な橋を渡ったのだ。それに相応しい結果というものだ」
景隆は景白利ほど浮かれていない。蘇亥が自分達にまつわる不正を調べ始めたと知った時は肝を冷やした。
「夏光は子飼いともいうべき田知を失いました。時を待たずして彼の時代は終わるでしょう」
「楽観するな、白利。蘇亥が調べていた証拠はすべて抹消したが、我らは殺人という非情の手段を取ったのだ。何度も使える手ではないし、露見すれば一巻の終わりだ」
「承知しております。ですから、蘇亥を討った者も始末しております」
そういうことではないのだ、と景隆は言い掛けて辞めた。今の景白利に何を言っても無駄であろうと思えた。
「寧ろこれからだ、白利。いくら目障りな連中がいなくなったとはいえ、お前が官吏として活躍せねば、前途は開けんぞ。景家の家柄だけで出世できるとは思わんことだ」
「承知していますよ」
景白利はふふっと笑ったが、父としてはどうしても不安だった。景白利は軍事畑で来たので、政治や経済、行政にまつわる学識が非常に乏しかった。同じ一族の中でも紀周の塾で学んでいる景尚の方がよほど期待できた。
『来年の官吏登用で尚をあげて白利につけてやった方がいいか……』
このようなことで悩んでいるうちは丞相の職が景家に回ってくるのは夢のまた夢だろうと嘆息した。
泉春宮に暗い影を落とした一連の事件は、紀周の塾にも及んでいた。紀周は何事もなかったように講義を務め、田知と蘇亥について触れることはなかった。それが紀周の心情をよく表していた。あえて触れないというのは、触れて欲しくないということに等しく、それだけに愛弟子の死と下野に強い衝撃を受けている証拠だった。
塾生達もその気分を察して田知と蘇亥について口にすることはなかった。ただ、重苦しい空気だけが塾を支配し、かつてのような活気を失っていた。
そのような中でも何暫は淡々としていた。塾にあって一人超然として勉強に励み、この頃になると他の塾生を寄せ付けない学識を持つようになっていた。
官吏登用試験まで半年となった頃、他の塾生が全員帰宅した後、何暫は紀周に呼ばれ講堂に残っていた。
「すまないな。実は君に相談がある」
「私にですか?」
「うむ。今や君の学識は他の追随を許さない。分野においては私以上かもしれぬと思う時がある」
「そんな……私はまだまだ師には及びません」
「謙遜として聞いておこう。それでだ、明日より何暫を塾頭にしたい」
「塾頭?」
何暫は驚いた。紀周の塾には塾頭という制度はあったが、ここ数年は任命していなかった。塾頭は塾生の筆頭であり、時として紀周に代わって講義をすることがあった。それだけの学識が必要であり、ここ数年は紀周が満足して塾頭を任せられる人材がいなかったのだ。
「私などがそのような大任を……」
「ぜひともやってもらいたい。実はあと二三年でこの塾をたたもうと考えている」
これにも何暫は驚いた。紀周の塾にはあのような事件があっても入塾希望者が後を絶たない。塾を閉める理由が見当たらなかった。
「本来であるならば君に跡を継いでもらいたいのだが、君の素志は官吏になることにある。だからそれを頼むつもりはない。だが、官吏となるまでは塾頭となって他の塾生を教育して欲しいのだ」
頼む、と紀周が小さく頭を下げた。
「先生、顔を上げてください。塾頭のついては承知しました。不肖の身ですが、先生をお助けしたいと思います。ですので、塾を閉める件については再考ください。先生のお力はまだまだ泉国に必要です」
「そう言ってくれるのは嬉しい。再考はしよう。だけど、私は二人の弟子を失った。泉国の政治に参政したいという夢を託した二人だ。そのことを思うと……な」
「お二人は望んで進まれたのです。もしそれが原因で先生が塾を畳むのであれば、塾を開いた志が失われてしまいます。それでは後を続く者が現れなくなります。どうか、茨の道を進む者達をこれからもお育てください」
何暫のこの言葉に紀周を目を丸くした。
「君がそのような熱意あることを語るとは思っていなかったぞ。いや、分かった。閉塾については今少し考えよう」
そう言った紀周だったが、この三年後に病を患い閉塾することになった。何暫はまさしく最後の愛弟子となった。




