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七国春秋  作者: 弥生遼
獄炎の法
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獄炎の法~28~

 田知は失望した。

 丞相夏光に失望したというよりも、泉国の政治そのものに失望したというべきだろう。いくら試験によって広く官吏を登用してみせても、所詮は既得権を掌中にしている連中による政治が幅を利かせている。田知などが大蔵次官になり、やがて大蔵卿になったところで、根のように蔓延るそれら勢力によって潰されるだけなのだと思い知らされた。

 田知が自己の政治理念を実現させるには、もはや一つの方法しかなかった。それは夏光の娘である夏音と結婚し、夏氏に婿入りすることだ。そうなればやがて丞相という地位を得られるかもしれない。しかし、それまでの道程はとても長いうえに辿り着けるかどうかも定かではない。仮に辿り着けたとしても、田知は汚濁にまみれ、若き頃に持っていた清い政治理念を失っているだろう。そうなってしまっては、丞相という高みに立てても意味がなかった。

 「すまん、蘇亥。私は自分の命が惜しい。命を賭けてまで自己の信念を貫き通すだけの勇気はないし、自分が汚れて失われていくのがたまらなく怖い」

 田知は悔し涙を一晩中流した翌日、辞表を提出した。受け取った采庚は慰留することなく受理し、夏光も何も言わず裁可した。


 田知の辞職は騒ぎにならぬはずがなかった。蘇亥の死も衝撃的であったが、それ以上の衝撃が官吏達の間に走った。特に試験において官吏になった者達の動揺はより一層強かった。彼らかすれば田知は目標であり、希望であった。その存在の消滅は彼らの行く末を闇に閉ざすに等しかった。

 「蘇亥殿の死がよほど堪えたらしい」

 田知の辞職理由は公表されていない。多くの人は蘇亥の死に精神的な打撃を受け、仕事に対する気力を失ったのだと解釈していた。

 「果たしてそうだろうか……」

 と思ったのは夏音一人であっただろう。時代こそ違え、同じ紀周の門人として夏音は田知辞職の理由が他にあるのではないかと思えてならなかった。

 「私も友が死ねば気落ちはするだろう。でも、職を投げ出すことをするだろうか」

 夏音の脳裏に何暫の顔をが浮かんだ。もし何暫が亡くなったとして、夏音は気落ちし、しばらくは仕事ができぬだろう。だが、仕事は辞めることはないという確信があった。立ち直れば亡き友の分まで使命を果たそうとするだろう。紀周の門弟にはそういう気概があるはずだった。

 「何があったのだろう。まさか私との婚姻が原因ではないだろうが……」

 どうにも気になってしまった夏音は田知の寓居を訪ねることにした。


 仕事終わりに田知の寓居を訪ねてみると、田知はそこにいた。

 「やぁ、夏音君。ま、あがりたまえ。散らかっているが……」

 田知は快く夏音を迎えてくれた。思いのほか元気そうではあった。ただ、家の中が散らかっているのは、至る所で荷造りがなされているからだった。

 「荷造りをされているのは……」

 「うん。泉春を去ることにした。官吏でない以上、ここにいても意味がないからね」

 さっき先生に挨拶してきたよ、と田知は力なく言った。

 「先生は何て仰っていました?」

 「お前の意思を尊重すると言われたよ。塾で講師をしないかと言ってくださったが断った。泉春にいるのはどうにもつらい」

 「それは蘇亥様が亡くなったからですか?田知様が辞められた理由は、親友である蘇亥様が亡くなったからだと言われていますが……」

 それを聞きに来たのか、と田知は力なく笑った。

 「失礼なことを聞いているのは重々承知しております」

 「蘇亥が死んだことも理由のひとつかな。でも、それが主たる理由じゃない。私ではどうにも越えられない壁がある。それに気が付いたからかな。漠然として申し訳ないが、そうとしかいえない」

 「それはご自身の身分のことでしょうか?」

 「半分正解かな……うん……あるいは君ならばその壁を越えられる。いや、壊せるかもしれない」

 田知は手元になった封書を夏音に渡した。

 「この中身は何であるかは言えない。私から言うつもりはない。もし今後、君が政治的に困難に直面した時に開けるといい。但しその時は君の政治生命の全てを賭けなければならなくなるかもしれないから覚悟するように」

 封書を受け取った夏音は手が震えていた。この封書がいかなるものか分からないが、その重要性は田知から発せられる迫力で察することができた。

 「肝に銘じます……。田知様がこれからどうされるのですか?」

 「泉冬に家を借りました。そこで書見しながら、邑の子供に読み書きでも教えるつもりです」

 もう泉春に来ることはないでしょう、と田知は言った。その言葉通り、田知が泉春の地を踏むことはなく、長い余生を泉冬で過ごすことになる。


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