獄炎の法~27~
蘇亥は官吏になってから泉春の市街地には住まず、郊外に家を借りて住んでいた。静かで書見には環境が良いという理由だった。田知は何度も尋ねたことがあったので、迷うことなく辿り着くことができた。
紀周と共に翼国から亡命してきたので蘇亥には泉国に身よりはない。そのため遺品を整理する者はおらず放置されていた。実は田知が遺品整理の名乗りをあげていたのだが、刑部省管轄の書類があるかもしれないということで却下されていた。
すでに夜。周りに人家が乏しく暗い。蘇亥の家も灯りが漏れることなく夜の闇に浸かっていた。門扉を潜り、戸に手をかけた。鍵は開いていなかった。躊躇わず中に入った田知は愕然とした。家の中がすっかりと荒らされていたのだ。
書棚や箪笥がひっくり倒され、中に入っていただろう本や衣服が散乱していた。机の引き出しながらもほとんどが引き出されており、無造作に放置されていた。
『私が無理をしてでも遺品整理をやるべきだった……』
おそらくは蘇亥が集めた景隆の不正にまつわる証拠は持ち去れていることだろう。いや、そもそも蘇亥が本当に景隆の不正を暴こうとしていたかどうか。今となっては何も分からなかった。
「警官を呼ぶべきか……」
田知は家を飛び出して番屋に行くべきかどうか迷った。もし、蘇亥が亡くなったのも、蘇亥の家が荒らされていたのも景隆によるものだとすれば、警執管轄の捜査ではどうにもならないだろう。
「くそっ!」
田知は傍に落ちていた引き出しを蹴り上げるしかなかった。
田知は打てる手を模索していた。なんとしても蘇亥の敵を取りたい。それには蘇亥が成そうとしていた景隆の不正を明らかにし、蘇亥を葬ったのが景隆であると白日の下に知らせるしかない。だが、景隆は甘比などとは比べ物にならない実力者である。田知一人が声を上げたところで握りつぶされるか、蘇亥の二の舞になるだけだった。景隆に拮抗する人物となれば夏光しかいなかった。
「丞相とて景隆のことを良く思っていないはずだ。そこを突けば……」
田知は翌日なって丞相府へ赴いた。夏光に面会を申し出ると、やや待たされたものの執務室に招き入れてくれた。
「どうしたのだ、次官。ひどい顔をしているぞ。親友が亡くなったのは気の毒だが、お前がそんな様子では浮かばれんぞ」
「丞相。昨晩、蘇亥の家を見てきました。まるで賊に荒らされてみたいになっていました」
夏光が息を飲む音が聞こえた。
「若い男の寡暮らしなら散らかっておろう」
「そういう程度ではないのです。それに蘇亥は几帳面な男です。親友として何度も家に行っていたので知っております」
「では、どこかで蘇亥が亡くなったことを知って賊が入ったのだろう。明日にも警執に報せるようにすればいい」
「蘇亥は景隆殿の不正を暴こうとしていたかもしれません」
夏光が急に怖い顔になった。田知は怯まず、じっと夏光を見据えた。
「証拠はあるのか?」
「いえ……確たるものは……」
「それではどうにもならん。明確な証拠もなしに不正ありと騒ぎ立てるのは誹謗に過ぎん。それが分からぬお前ではなかろう」
「しかし……」
「蘇亥が景隆の不正を暴こうとして殺された。そして不正の証拠を探すために家が荒らされた。こう言いたいのだろう。証拠もなく、疑惑の根すらもない状況で騒ぎになれば、損をするのはお前だぞ。折角、次官まで進んだ身代を一気に失うことになるぞ」
「丞相のお力をもって調査をするということはできませんか?」
「馬鹿なことを言うな。下手をすれば泉国を二分する内乱になるぞ」
「……」
「田知。お前は有能だ。有能すぎると言っていい。私塾で学び、官吏として生きるのであれば有能なままでいい。しかし、お前が官吏以上の高みを目指すのであれば、権力の力関係というものも知らねばならんぞ」
夏氏と景氏。その両氏の力が緊張状態ながらも拮抗してこそ泉国が成り立つ。夏光はそう言いたいのだろう。田知は理解しながらも、納得はできなかった。
「政治が清廉であれというのは素晴らしいことだ。私とてそう思っている。だが、実際の政治というものは幾万の人が関わるものだ。灰燼に塗れ、薄汚くなる。私もそうなってしまった。そうなってしまったうえで、できるだけ清らかな政治を行いたいと思い、実際にそうしているつもりだ。その姿はお前からすれば、随分と薄汚れたものに映るかもしれない。だが、それが政治なのだと私は言いたい。分かるか?」
田知は返答できなかった。夏光の言い様はこれまでの田知の政治思想を根底から否定するに等しかった。夏光が田知の提案した租税改革案に即諾せず、返答を先延ばしにしたのも、既得権益を握る公族貴族と真っ向から対立するつもりがさらさらなかっただけなのだろう。
「分からぬのであれば、お前にはまだ政治は無理だ。官吏として経験を積み、世間の清流と濁流を知ることだな」
それだけ言って夏光は退室を促した。田知は黙って引き下がるしかなかった。




