獄炎の法~25~
思わぬ婚姻話で困惑しているのは夏音だけではなかった。相手とされた田知もまた困惑し、懊悩としていた。
自己が抱く政策案を実現させるため、そして官吏として政治家としてのこれからを考えれば、夏音との婚姻は魅力的だった。また夏音という女性自身も魅力的であり、これを妻とする生活は想像しただけで田知の本能を刺激した。
それでも田知がこの婚姻に迷っているのは、自分が公族貴族といった権威に取り込まれることを恐れたからだった。特に夏氏は景氏と並んで泉国では一二を争う権勢家である。田知はそれら権勢家が持つ既得権益をなくすことで国家を豊かにしようとしている。謂わばそれらの階級と敵対する立場にあるにも関わらず、田知がそちら側に入り込めば、結局は彼らと同化し、挙句には自分自身も既得権益を振りかざす側に回ってしまうのではないか。確固たる信念をもって官吏になった田知からすれば、それは最も許されざることだった。田知は恥を忍びながら蘇亥に相談した。
「愚かなことだ。答えは断るしかないぞ」
蘇亥はにべもなく即答した。
「俺達が先生のもとで学び、泉国に来て官吏になったのは何のためか?特権階級を解体し、それをもってして社稷を豊かにするためではなかったか。自ら汚泥の中に飛び込み、自らも泥まみれになるつもりなのか?」
「分かっている。だが、飛び込むことでその場で改革もなり易いということもあるぞ」
田知は言いながら、自分が夏音との婚姻に前向きになっていることに気が付いた。蘇亥は憐れむような目で見てきた。
「見損なったぞ、田知。女で信念を失い、正道から足を踏み外すか」
「大げさな、私は……」
「相談があると言うから勇んで来てみればこれか。俺は忙しい。お前の色恋話を聞いている暇はない」
「聞いてくれ、蘇亥」
「俺は俺でやることがある。お前はお前でやるんだな」
蘇亥が決別するかのように背を向けた。田知は呼び止めとしたが、言葉に詰まった。今の蘇亥に何を言っても無駄であろう。また時間が経ち、自分の言動を見れば考えを改めてくれるかもしれない。蘇亥との仲はそういうものだと思い直した田知は、夏音との婚姻もしばらくは保留にしてじっくりと考えようと思った。
この時の蘇亥はすでに田知と違う方向を向いていた。田知が練り上げた検地と租税の改革案などどうでもよくなっていた。不正を暴き、高位の者を追い落とすということが快感になっていた。
甘比が失脚したことで刑部卿は空位となった。その仕事は当面の間は次官である尾延が代行するようになり、その影響で蘇亥も任される仕事が増えて権限が広がった。このまま行けば、尾延が刑部卿となり、蘇亥は次官補あるいは次官になれるかもしれない。そうなってくると、さらなる手柄をあげて名声を確実なものとしておきたかかった。
「やはりもっと大物の不正を白日の下に晒さねばならない」
成功体験というのは時として目をくらませる毒物となる。今の蘇亥はまさにその毒を喰らったようなものであり、これから成そうとしていることが如何に危険であるかという冷静な思考を失わせていた。
「狙うとすれば景隆だな」
泉国で甘比以上の大物といえば夏光か景隆しかいない。夏光は自分達のような試験採用の官吏にも好意的なので外すとなれば、景隆しかいなかった。
景隆の不正については命令があって行われるわけではない。甘比のように事前に密告文書を作っても握りつぶされてしまう可能性がある。ここは秘密裏に蘇亥ひとりで調査をするしかなかった。
諸々調査していると景隆の不正はけた違いだった。不正して得た金額は甘比のそれを十倍近く上回り、その方法の多岐に渡っていた。
「よくもこんなに不正の仕方を思いつくものだ」
蘇亥は呆れ果てつつ、感心するしかなかった。特に蘇亥の目を引いたのは、公金の横領だった。泉国では国家規模の土木工事が発生した時、国庫からいくらか資金が拠出される。景隆は自分の食邑内で行われた工事において、工事費用を高く見積もり、差額分を懐に仕舞いこんでいたのである。
「これは弾劾するに値する不正だ」
今の段階ではまだ言い逃れをされるかもしれない。確固たる証拠を得るために蘇亥はさらなる調査を行うことにした。




