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七国春秋  作者: 弥生遼
獄炎の法
933/959

獄炎の法~24~

 泉春宮での嵐が吹き荒れている最中、何暫の日常は無風に等しかった。泉国の政庁で閣僚の不正が暴露されたという話は風聞として聞いていたが、まだ書生の域を出ていない何暫には関わりのないことだった。

 何暫の日常は紀周の塾に通い、塾に行かない時は下宿先で勉強しているだけだった。

 『夏音は元気にしているだろうか……』

 勉強をしながらも時折、夏音のことを思い出していた。夏音が官吏になってから一度も会っていない。泉春宮に勤める官吏が一介の書生のために作る時間などそうないはずである。寂しくはあったが、それだけ夏音が充実した仕事をしているということなのだろう。今はそれでいいと思った。

 「私もいずれ……」

 自分も官吏になる。そう思うと勉強にも自然と熱が入った。

 その日も夜遅くまで書見をしていた何暫は、ふと夜風に当たりたくなった。勉強に熱が入り過ぎて体が火照っているように感じられたからだ。

 すでに何申夫妻と下女は就寝している。音を立てないように一階に降り、裏戸から外に出た。すでに泉春では秋の空気が流れていた。涼やかな風が火照る体を冷やしてくれた。しばらく佇んでいると、ふらりと目の前に人影が過った。ぎょっとしていると、その人影が何暫の前で立ち止まった。

 「夏音……」

 それが夏音であるとすぐに知れた。夏音は精気を失った顔で項垂れていた。

 「君がここに来るときはいつもそんなだな」

 冗談のつもりで言ったのだが、夏音にとっては冗談ではないらしく、ぼろぼろと涙を流し始めた。

 「中に入るか?」

 何暫が言うと、ここでいい、と夏音が返した。

 「どうしたんだよ。何か仕事で行き詰っているのか?」

 「仕事のことなら自分でなんとかする」

 「丞相と喧嘩したのか?」

 夏音が体をびくりとさせた。図星なのだろう。

 「縁談の話をされた。相手は田次官だ」

 夏音の告白に何暫は戸惑った。何故そのようなことを自分に告白するのか。そして縁談という自分と縁もゆかりもない話をされても、どのように返答していいの分からなかった。

 「私はまだ十九だ。いや、十九なら縁談があってもおかしくないし、実際に結婚し子供を産んでいても不思議ではない年齢だ。だけど、私はまだ結婚なんてしたくない。どういう経緯であれ、折角官吏になれたのに……」

 「それぞれの家のことがあるだろうさ。私には何と言っていいか分からない」

 「そうだろうな。いかにも何暫らしい言葉だ」

 夏音がどこか残念そうに乾いた笑いを浮かべた。

 「どうして私の所に来た?私がそういう話に疎いというのは知っているだろう」

 「自然と足が向いた。何でだろうな。でも、気が少し楽になった。お父様はしつこいが、のらりくらりとかわすさ」

 何暫の知る夏音に戻りつつあった。彼女の知性なら、こういう困難も切り抜けていけるだろう。

 「そうか。落ち着いたのなら今日は家に帰るといい。話ならまた聞くからさ」

 「ああ……そうだな。こんな時間に迷惑かけた」

 「駅馬車ってまだやっているのか?すぐそこだから、見てくるから中に入って待っていてくれ」

 何暫が歩き出そうとした時だった。夏音は何暫の右腕をぐっと掴んだ。夏音はそのまま何暫の体を引き寄せ、その細い胴に両手をまわした。

 「おい、夏音……」

 突然のことで何暫は戸惑い動揺した。何暫の人生の中でこれほど困惑した状況になったことはなかった。

 「塾にいた時、私に話しかけてくる男達はごまんといたが、何も気にならなかった。木石が喋っている程度にしか思っていなかった。けど、君だけはどうにも違っていた。どうしてだろうか?」

 「話しかけてきたのは君の方じゃないか」

 「そうだったな……」

 夏音が離れた。

 「駅馬車までは自分で行く。何暫、泉春宮で待っている。必ず官吏になれ」

 「言われるまでもない」

 じゃあな、と言って夏音が駅馬車のある方角へ消えていった。。彼女の触れた温かみがまだ残っている気がした。

 


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