獄炎の法~20~
蘇亥はいきなり自己の調査結果を尾延に伝えなかった。他の調査員と同様に本業の傍らに調査しているように見せかけていた。調査開始から二十日後、頃合いと見た蘇亥は就業後に尾延に声をかけた。
「卿の調査をしておりますと、色々と分かってまいりました」
蘇亥は調査報告書を尾延に差し出した。その内容は事細かかった。
まず各年の泉国全土の米や麦の収穫高を調べ上げ、それと甘比が申告した食邑の収穫高を比較した。全国的に豊作である年でも甘比の食邑では申告された収穫高は変わらず、不作の年では大幅に減少して申告されていた。
「参考として他の食邑の申告との比較も載せております。例えば五年前の不作の年、全国的には五割近い収穫高の減少を報告しておりますが、卿の申告は八割減になっております。この数値は明らかに異常です」
蘇亥は尾延が報告書を捲るたびに解説を加えた。報告書ではさらに甘比の食邑から運び出された穀物の数値も調べられていた。その数は申告された収穫高の実数から計算しても、明かに多かった。
「要するに卿は余剰の穀物を換金しておったのです。また卿の食邑の民は満足に食べられていない様子。これについても調べるべきかと思います」
蘇亥の解説を聞きながら最後まで読み終えた尾延は怖い顔を向けてきた。
「よく調べたと言えよう。しかし、公表できるか?こう言っては何だが、程度の差があるとはいえ、このような不正は公族貴族の方々はやっていることだぞ」
「やっていることだと言って不正が見過ごされては、我ら刑部は立つ瀬ありません」
「それはそうだが……」
「次官、よくよくお考え下さい。刑部として正義を示すべきです。そして、これで卿が失脚すれば、その卿が誰になるかお考え下さい」
「お前……言っている意味が分かっているのか?」
「承知の上で申し上げています」
尾延は深呼吸するように息を吐いた。存外、小心者であるらしい。
「この報告書は他の調査員には?」
「見せておりません」
蘇亥はさらりと嘘をついた。確かに調査員には見せていないが、田知には見せていた。
「これで卿が失脚し私が卿になって、お前は何を望む?次官の地位か?」
「いえ、そのような地位はまだ私には不相応です。ただ不正が明るみになることを願うだけです」
「……その殊勝さ。心得ておこう。引き続き調査するんだ。期限まではあと十日ある」
承知しました、と蘇亥は報告書を引き取った。これで尾延が自家薬籠中の薬となったと確信した。
順調に計画が進んでいると確信している蘇亥に対し、田知はどうにも不安だった。
「私の政策を実行するためには確かに蘇亥の計画は有効だ。しかし、あれはあまりにも劇薬過ぎる」
やはり堂々と朝議で政策を開陳して可否を問うべきではないのか。政治というのが清廉であるべきと信じている田知にとって陰謀は忌避すべきものだった。本来であるならば蘇亥の陰謀など退けるべきなのだが、それができず懊悩のとしてるのは自己の政策を実現させるための近道であると認めているからでもあった。
「次官、よろしいでしょうか?」
自分の席で懊悩としていると声をかけられた。田知が顔を上げると、夏音がいた。
「ああ、夏音さん。どうしました?」
「書類をお持ちしました。一応、私の方で精査致しましたが、ご確認をお願いいたします」
「分かりました」
田知は書類を受け取り一読した。誤りが見られず、内容も完璧に近いものだった。
「よろしいかと思います。流石は先生のもとで勉学されたことはある。素晴らしい文章です」
「ありがとうございます」
夏音の瞳には強い光が宿っていた。官吏としての前途に希望を持っている若者の目だった。
『こういう若者のためにも政治はやはり清廉であるべきだ……』
しかし、と先程と同じ懊悩が蘇ってきた。
「あの…次官。差し出がましいことかもしれませんが、お疲れではないですか?」
「疲れている……疲れているのかもしれないな」
「私に何ができるか分かりませんが、お休みになさってください」
「肉体的な疲労だけではないのだが……夏音さんは政治に清廉を求めますか?」
「勿論です」
夏音は即答した。その語気に瑞々しい力強さを田知は感じた。
「では、政治に汚濁は必要かと思いますか?」
「分かりません……ですが、極力清廉であるべきかと思っています」
「そうですね……せんないことを聞きました。今日は終業してください。私も帰ります」
もし政治における清廉を実現させるのなら夏音なのかもしれない。そのための汚れ役になるならそれで構わないのではないか。田知はそう思えてきた。




