獄炎の法~19~
泉春宮に嵐が吹き荒れた。嵐のもととなったのはある密告文書だった。
『刑部卿甘比が不正を行い私腹を肥やしている。よろしく調査されたし』
この文書は各省に投げ込まれた。甘比が卿を務める刑部省にも投げ込まれ、官吏達の間にわずかに動揺が広がった。甘比当人は、
「根も葉もない噂だ、誰かが私を貶めようとしているのだろう」
と言って取り合わなかった。しかし、この文書が泉勝までに達すると様相が変わった。
「根も葉もない噂で中傷されては甘比も可哀そうだろう。よろしく調査して甘比の疑いを晴らしてやれ」
泉勝がそのように夏光に指示したのである。泉勝はこの文書について単なる中傷であると思っていた。その裏に陰謀の影を嗅ぎ取るほどの嗅覚が泉勝にはなかった。ただ夏光は違っていた。
『次官が朝議に参加できるようになったこの時機にこのような投書。単なる中傷ではあるまい』
何者かが刑部卿である甘比を貶めてその地位を狙っているのではないか。夏光はそのように邪推した。その陰謀に乗るかどうか。
『甘比は景隆に近い。排除しておいても損はあるまい』
夏光は乗ることにした。その裏に大いなる陰謀が隠されていることにはまだ気が付いていなかった。
「この文書のみそは、卿を追い落とすための陰謀であると思わせることができることだ。まさか公族貴族の不正そのものに目を向けさせるものであるとは主上丞相も思っていまい」
甘比の不正に関する文書を作成し、各省に投げ込んだのは蘇亥と田知だった。蘇亥が主導し、田知が追認した形になった。
「私はこのような陰謀めいたことは好みではないのだが……」
「甘いぞ、田知。政治に清廉を求める気持ちは分かるが、時として泥水を飲み込むことをしなければ、有象無象の世界は生きていけないぞ」
「それは理解するが……」
「陰謀と言えば聞こえ悪いが、そっちは俺に任せておけ。お前は最後の最後にかっこよく登場してくれればいい」
蘇亥の調査では甘比は間違いなく収穫高の不正を行っている。そのこと田知が朝議で糾弾し、検地の必要性を解くというものであった。不正を朝議の場で明るみにされたら検地に応じるしかないだろうというのが蘇亥の計算だった。
「そう上手くいけばいいが……」
「いかすのさ。俺とお前ならできる」
蘇亥の自信がどこから来るものなのか。田知は不思議でしかたなかった。
甘比にまつわる調査がはじめられた。式部、刑部、大蔵の各省から二人ずつ調査員が選定され調査にあたることがあった。刑部省からは蘇亥が選出された。
「調べたいのであれば存分に調べてくれ。何もやましいことはないのだからな。我が屋敷にもいくら出入りしてもらってもいいし、どの部屋に入ってもらっても構わんぞ」
甘比は全面的に協力する意向を示した。甘比には不正が露見しない自信があった。不正に関する資料はすべて自分の食邑に隠してあるし、何よりも食邑を持つ公族貴族ならば誰もがやっている不正である。仮に明るみになったとしてもどこかで握りつぶせるという自信が甘比にはあった。
『下級官吏どもが集まって調査したところで何ができよう』
権力というのは自己の立場を守るために振りかざすものだという考えが甘比の根底にあった。それが他者への侮りを生むことになった。
実は蘇亥は甘比の不正にまつわる証拠をすでに全て押さえていた。刑部省に配属されて以来、いずれ甘比は追い落とすか取引をしなければならない相手だと思っていた。だから甘比にとって不利となる様なことを綿密に調査し、その証拠を集め続けていた。そういう緻密さと粘着ぶりは田知の及ぶところではなかった。
「さて、いろいろと不本意な理由で集められただろうが、主命とあっては仕方あるまい。それぞれが適度に調査して私に報告してくれ」
調査団の首座を務めるのが刑部次官の尾延だった。蘇亥にとっては直属の上司であり、何かと目をかけてくれていた。蘇亥が調査団に入れたのも尾延のおかげでもあった。
尾延という男は仕事熱心ではなく野心的でもなかったが、刑部卿である甘比とはそりがよくない。蘇亥が陰謀を進める上ではうってつけの相手だった。




