獄炎の法~12~
何暫と夏音の関係は徐々に縮まり、深まっていった。但し、その関係はまだ男女のそれではなく、同じ学び舎で学ぶ友人という程度だった。
官吏登用意見が近づいてきている。官吏登用試験は年に一回行われている。試験に合格し、採用される人数は決められていない。当然ながら試験に及第するだけの点数を取らねばならず、及第点に届く受験生がいなければ誰も採用されず、そういう年も過去に一度だけあった。
「今年は採用枠が増えるらしい」
紀周の講義後、何暫が書庫で自習をしていると、いつものように夏音が話しかけてきた。
「それはどこの情報なんだい?」
「父上だ」
即答した夏音に何暫は顔をしかめた。
「そんなことばらしていいのか?」
「別に試験で不正をしているわけではないからいいだろう。合格枠が広がれば私達だって採用される可能性が出てくるんだぞ」
「ちょっと待ってくれよ。まさか夏音も試験を受けるのか?」
「当然だ。そのために先生の塾に通っているんだ」
「丞相の娘ならそんなことしなくても……」
「私がそうしたいんだ」
夏音が急に真面目な顔になった。
「私は自分の実力で官吏になり、丞相になりたいんだ。家柄や縁故で官吏になって出世したところで実力が伴っていなければ意味がない。私は実力をもって執政者になったと認められたいんだ」
夏音が自分の家柄で苦悩していることを何暫は薄々と感じ取っていた。良き家柄の生まれというのは時として羨望を受け、時として嫉妬を買う。仮に夏音が夏氏の娘として官吏に採用されれば、周囲は羨むと同時に、
『実力もないのに官吏に登用されたお嬢様』
と陰口を叩かれるだろう。自分の才能に矜持がある夏音にはそれが耐えられないのだろう。だから試験を受けようとしているのだ。
「それはいいことを聞いたのか、悪いことを聞いたのか……」
急に郭旦が二人の会話に入ってきた。夏音が顔をしかめた。
「立ち聞きとは行儀悪いな」
「そう言いなさんな。採用枠が増えるのは嬉しいが、夏音が受けるのであれば、折角の枠がひとつなくなることになる」
それは残念だ、と言って郭旦は夏音の隣に座った。夏音は迷惑そうに座っている椅子を少し郭旦から遠ざけた。
「君の学力では及第点にすら達しないだろう。枠がひとつ空こうが塞がろうが関係ない」
夏音は容赦がなかった。それでも郭旦は怒ることなく、手厳しいなと嬉しそうに言った。
郭旦が夏音のことを密かに好いているということを何暫は薄々感じていた。その好意には単に異性として好きという感情もあり、丞相の娘に近づきたいという下心もあった。最近では夏音が何暫と共に勉強していることが多いので、郭旦が何かと絡んでくることが多かった。
「何暫は受けるのか?」
夏音が郭旦を無視するかのように聞いてきた。
「受けるつもりではいますが、まず受からないでしょう」
何暫は冷静に自己というものを見ていた。官吏登用試験が始まって十年経過しているが、初受験で及第した者は今をときめく田知しかいなかった。二回目の受験で及第した者もわずかであり、三年四年かけて及第するのが当たり前だった。長いものでは官吏登用試験と同じ年月を受験に費やしている者もいるという。将来的には合格するつもりではいるが、すぐには無理であろうと何暫は思っていた。
「気弱だな。私は一発で及第してみせるぞ」
夏音も初めての受験だった。夏音の学識は紀周の塾では群を抜いている。可能性はあった。
「でも、採用枠が増えると言っても試験で及第点を取らねばならない。試験を優しくするつもりなのかな?」
それならば何暫にも合格する可能性があるかもしれない。
「どういうことなのかまでは分からないが、父上はとにかく採用枠を増やしたいらしい。及第の点数を下げるのか、それとも上位何名は及第と決めてしまうのか」
まだ何も決まっていないのか、と郭旦が残念そうに呟くと、夏音は横目でにらみながら小さく舌打ちをした。郭旦の春は相当遠そうだった。




