獄炎の法~10~
泉春宮で政治的な旋風が吹き荒れようとしている。その余波が紀周の塾で学ぶ者達にも及ぶのだが、まだこの時は穏やかな空気の中にあった。
何暫は来る官吏登用試験に向けて寸刻を惜しんで勉学に励んでいた。その姿勢は入塾当初から変わらなかったが、多少環境が変わってきた。夏音との関わることが増えてきたのだ。
これまで塾の中で何暫が言葉を交わすのか郭旦ぐらいなものであった。そこに夏音が加わってきたのだ。
「何暫はいつもつまらなそうに勉強しているな」
何暫が書庫で自習をしていると必ずと言っていいほど夏音が前の机に座って話しかけてきた。
「つまらなくはないですよ。面白いぐらいです」
何暫は開いている書から目を離さずに返す。夏音がくすくすと笑っているのは分かった。
「だったら、もっと楽しそうにすればいいのに」
「無愛想なのは生まれつきです」
こういう他愛もない会話もすれば、真面目に勉強の話をすることもあった。この二人の関係を他の塾生達は奇異に見ていた。
今までの夏音は他の塾生達に囲まれて言い寄られることはあっても、夏音から誰かに寄っていくことはなかった。だから夏音から何暫に話しかけていくことが他の塾生からすれば不思議で仕方がなかった。
「夏音様。丞相家の令嬢である貴女があのような下賤の者と関わってなりません」
紀周の塾に通っているある貴族の子弟などは夏音に忠告するが、夏音はまるで聞く耳を持たなかった。
「私が誰と話すかは私の勝手だ。それに先生の塾では身分の差はない。そんなことを言っている暇があったら勉強でもすればどうだ?君の見識は何暫のそれに劣っているぞ」
夏音は忠告してきた者に対して容赦ない反論をして黙らせていた。
一方の何暫は自分が夏音が関わりを持つことで周りから奇異に見られていることと、その中に嫉妬の視線が交じっていることも薄々ながら察していた。察しながらもまるで気にしないのが何暫だった。
「なぁ、何暫。今度、一緒に夕食でもどうだ?」
ある日、夏音が夕食の誘いをしてきた。夏音が他の塾生からのそういう誘いを受けても悉く断ってきたということを知っていたので、何暫は多少驚いた。
「どういう魂胆ですか?」
「魂胆とは嫌な言い方をするな。私は友人と食事でもしながら語り合いたいだけだ」
「まさか夏音の家ではないでしょうね?」
「まさか。私の家では何暫も緊張して水も喉に通らないだろう。まさか、行きたいのか?」
「それこそまさかですよ。御免被ります」
「じゃあ、外でだな。良い店を探しておく」
「高い店は嫌ですよ」
「……誘ったのは私だ。奢るよ」
私の方が先輩だしな、と言って夏音は何暫の型を叩いて去っていった。どうせ社交辞令だと何暫は思っていた。
次の紀周の講義は三日後だった。いつも通りに紀周の講義を聞き終え、講義内容を補足するために塾の書庫へ向かうと、そこに夏音が待ち構えていた。
「今晩行くぞ」
夏音は唐突だった。それが夕食の誘いであると何暫が分かるまでちょっとだけ時間を要した。
「突然ですね。今日の今日って……」
「急に言わないと君は色々と言い訳を考えて断るだろう?」
何暫の思考が完全に読まれていた。夏音と言葉を交わすようになってまだ日が浅いのにどうして分かったのだろう。
「図星ってところだな」
夏音が嬉しそうに笑った。どうやら鎌をかけられたらしい。
「……私に予定があったらどうするつもりだったんですか?」
「予定?どうせ夜近くまで書庫に籠って勉強しているだけだろう。官吏登用試験まではまだ時間がある。今日一日勉強しなくても取り返せるさ」
さぁ行くぞ、と夏音は何暫の腕を取った。抵抗しても無駄であろうと思えた何暫は素直に従うことにした。




