獄炎の法~5~
何暫が紀周の私塾に入り、初めての講義が行われた。そこで新しい塾生の紹介などはなく、何暫は末席に座った。塾生の誰もが新しい塾生が来たと分かっていても、声などかけず見ることもなかった。
紀周が講堂に入ってきた。塾生達が立ち上がり一礼して、紀周も一礼した。
「では、講義を始める。今日は……」
中原における法を体系的な学問として構築した紀周であったが、実際に教授する手法についてはまだまだ未発達なところがあった。ここでもいきなり静国における民衆法については語り始め、何暫を多少困惑させた。
それでも何暫にとって紀周の講義は心地よくも力強い旋律を聞いているようであった。
「やはり私の進むべき道は法なのだと思った」
後に何暫は紀周の講義を初めて聞いた時の感想をそう述べていた。
紀周の講義は一刻半に及んだ。紀周を送り出した塾生達が先程の講義について談笑しながら講堂を出ていく。そんな中で何暫はひとり放心状態だった。
「どうした?君は外に出ないのか?」
そんな何暫に声をかけてきた男がいた。何暫よりは少し年上であろうか。人懐こい顔を向けていた。
「失礼……。その先生の授業があまりにも素晴らしかったので……」
「ああ、君は新しく塾に入って来たんだな。俺は郭旦という」
「何暫です。よろしくお願いします、郭旦さん」
「旦でいいよ。先生の塾に入れば年齢は関係ない。それに俺達はまだ年が近そうだ」
郭旦は十八歳だと言った。紀周が来月で十七歳になると言うと、若いなぁと郭旦はおどけていった。
「俺も先生の授業を初めて聞いた時は興奮してその夜は眠れなかったよ。どうだい、少し庭で話をしようじゃないか」
何暫は郭旦の話に乗った。この塾で知己は欲しかったし、塾の風にも慣れたかった。
何暫と郭旦は互いの素性について簡単に話した。郭旦は泉春宮で働く官吏の息子であるらしい。何暫は純粋に驚いた。
「凄いじゃないですか」
「官吏と言っても下級だ。御当代の御代では試験にさえ通れば官吏になれる。俺の親父も何とか登用されただけだ」
「それでも狭き門です。私は父に期待されて泉春まできましたが、泉春の大きさと泉春宮の壮麗さを目のあたりにするとどうにも自信を無くしてしまいます」
「そんなしおらしいと競争社会では生きていけないぞ。ほれ、あれを見ろよ」
郭旦が指さした先に黒衣の集団があった。その中にひと際目を引く人物がいた。眉目麗しい男児、と思ったが、胸に膨らみがあった。
「女もいるんですか?」
「しかもただの麗人じゃない。名は夏音という」
「夏?夏氏ですか?」
夏氏は泉国では景氏と並ぶ権勢家である。しかも現在の丞相はその夏氏の夏光なのである。
「そうだ。彼女は夏丞相の一人娘だ」
夏音が囲まれているのは彼女が麗人だからというわけではなさそうだった。丞相の一人娘となれば知己になりたい者も多いだろう。
「どうして夏丞相の娘がここに?」
「俺達と同じく学びに来たんだよ。丞相の娘となれば先生を招へいすることもできるんだろうが、夏音自身が外で学びたいという通っているらしい」
変わっているような、と郭旦は同意を求めたが、何暫は曖昧に頷いた。
変わっているとは言えば変わっているだろう。権力者の子女として紀周を自宅に招くぐらいは造作もないことだ。だが、学びたいのであれば自ら赴くのが学ぶ者としてのあるべき姿であると何暫は思っていた。
「それだけ彼女は学びたいのでしょう」
なかなかできることではないだろう。それだけ夏音が本気であるという証拠のように思えた。
「丞相の娘ならばどこぞかの公族貴族の子弟か、あるいは他国の太子とも婚姻できるんだぜ。何も勉強する必要なんてないのにな。聞いたところでは官吏登用の試験を受けるつもりらしいぞ」
「え?丞相の子なら試験なんか受けなくても官吏になれるんですよね?」
「勿論そうだ。でも、御令嬢はそれが嫌らしいんだ」
やっぱり変わっているな、と郭旦が言うと、何暫はそれには同意した。




