獄炎の法~3~
「暫よ。兄貴はお前を官吏にしたいと言っている。官吏と言っても様々ある。お前は何になりたいんだ?」
泉春に到着した翌日には進路について何申が尋ねてきた。何暫はやや狼狽した。これまで何暫は父に言われるがまま勉強し、父に命じられるようにして泉春に上ってきた。急に何になりたいなどという自発的な解答が求められる質問をされても返答に窮するだけだった。
「私は何に向いているんでしょう?」
何暫の返答に何申は困った顔をした。
「向いているかどうかではなく、お前が何になりたいかなんだが……。そう簡単に決められんか?」
すみません、と何暫が言うと、謝ることではない、と何申は言った。
「まぁ、決められぬとあれば、他者から指し示された道を進むというのもありだろうな」
何申は何暫が読んでいた本を手にした。それを見て何事か閃いたように手を打った。
「まずは法官になる勉強をしてみるのどうだ?よき先生が泉春にいらっしゃる」
「先生ですか?」
「紀周翁を知っているだろう」
叔父に言われた名前を何暫を当然のようにして知っていた。
紀周については多少の説明がいるかもしれいない。紀周は翼国生まれの法家だった。
そもそも中原における法について多少触れる必要があるかもしれない。中原における法は初代義王の時代からあったとされている。
『各公は人民を愛し、封土を治めるべし』
という御言葉が法の始まりであると多くの学者が主張している。所謂成文法ができたのはそれより約百年後の静国で制定された静国源康式目といわれている。その後は各国で成文法が成立し、国を治めるのに法が必要であるという考えが当たり前となっていった。
中原における法がさらに発展する契機となったのが紀周の登場であった。紀周はそれまで多分に各国でまちまちだった法を体系的にまとめ、学問として確立した人物だった。そして、何よりも紀周を有名にしたのは以下の言葉だった。
『法は公より出でて公の上に立つ』
法というのは公―国主から生まれながらも国主の上に存在しなければならないということである。要するに法というのは国主よりも上位にあってその力は国主をも縛るというものであった。
紀周は翼国の官吏として登用され、刑部省に入り、次官にまで出世した。次官時代に紀周は先の言葉と共に、国家五法を提言した。
国家五法とは全ての法の根本となる国家法を筆頭に、公族典範、官吏規則集、軍法、民衆法を指す。この中で特筆すべきは公族典範と軍法だった。
これまでいずれの法も慣習的であった規則を分かりやすいように文章にした程度ものだったが、紀周はこれを国主と閣僚の合議で定めるべきだと説いた。とりわけ公族に関する規則や軍法は、その時の為政者や法の遂行者によって歪められてしまうことがあったので、紀周はそれが行われないように普遍性を持たせようとした。
これらの紀周の提言に対して時の翼公は危険性を感じていた。紀周の提言したことをそのまま鵜呑みにしてしまうと、国主は法に従わなければならず、権限も制限されてしまう。当然ながら認めるはずがなかった。
翼公は紀周を追放した。失意の紀周は新天地を求めて国を出て泉国にやってきた。泉公となっていた泉勝は紀周を快く迎え入れた。紀周の法に対する考えは泉国を強国にするには必要と感じたからだった。
しかし、一方で紀周を参政させなかった。泉勝も紀周の思想に君主制を崩壊させる危険性を孕んでいるのは承知していたので、積極的な投与をせず、意見を聞く程度に留めた。
紀周は泉勝に感謝しつつも、参政させてくれないことにはやや失望した。それでも泉春で法に関する私塾を開くことは認めてもらえたので、紀周は泉春に骨を埋める覚悟をした。
『私が提唱した法に関する精神を学んだ弟子達がいずれ参政するようになれば、私が実現したかった政治が中原に誕生する』
紀周は教育者たろうと決意した。それが何暫が泉春に来る五年前のことだった。




