獄炎の法~2~
国史には何暫が生まれたのは泉国北部の泉春となっている。
泉冬は樹弘の時代では泉国北部の中心地として栄えているが、何暫の時代には北方の寒村のひとつという感じであった。
そもそもこの時期の泉国は翼国と何度も武力衝突をしており、泉国北部は常にその戦場となっていた。何暫が生きた時代より五十年ほど前には翼国軍が泉国奥深くに入り込み、泉春を包囲し、泉国は滅亡寸前に追い込まれることもあった。その代償として泉冬は一時期翼国に接収された歴史を持ち、接収されてから十年後に大金をもって泉国に返還された。以来、泉国北部には重税が課され、農産業が発展することなく貧しさの中にあった。
それでも何暫が生まれた家は比較的裕福だった。泉春周辺にいくつもの土地を持つ地主で、小作人を雇って農業をしていた。何暫はその家の次男として生まれた。
「農作物を作っていても戦争で農地を荒らされては元も子もない。泉春宮の人々は勝手に戦争を始めて農地を荒らしても補償などせず、逆に税金を課してくる。ろくでもない連中だ。お前は兄より頭がいい。勉強して泉春で官吏になってそういう悪習を改めさせろ」
何暫の父はそういう理由で何暫に学問をさせた。学ぶことを苦と思ったことのない何暫は父に言われるがままに私塾に通い、十六歳になる頃には周囲には学ぶべき師がいなくなっていた。
「どうでありましょう。ご子息には学問の才があります。泉春へと留学させれば、そのまま官吏登用への道も広がりましょう」
何暫を教えていた先生が父にそのように勧めた。その通りだと考えた父は何暫を泉春に留学させることにした。
後に酷吏として知られ、当代から後世にかけて民衆の怨嗟の的になる何暫であったが、少年期の何暫は頭がいいだけが取得の普通の少年だった。父から泉春に留学しろと言われても反発することなく素直に従い旅装を整えた。
「泉春には弟の何申がいる。万事伝えているからそれを頼れ」
父は泉春に向かう商隊に金銭を渡して何暫を託した。
何暫は荷馬車の荷台に座りながらずっと本を読んでいた。
「坊主。そんなに本ばっかり読んで楽しいか?」
何日か過ぎて、荷馬車を御する商人が話しかけてきた。この商人からすれば、泉冬などという片田舎の富農風情の少年が必死に勉強をしているのがおかしかったのだ。
「まず楽しいです」
何暫はそういう言い方をした。商人の言葉の中にある皮肉や侮蔑を汲み取らず、単純に楽しいか楽しくないかの返答をしただけだった。
「そうかい。お前の親父さんがどういうつもりか知らないが、勉強をして何をするってんだ?」
「父は私に官吏になれと言われた」
「はっ、官吏ね」
商人は明確にあざ笑った。
「確かに御当代は試験を行って平民からでも官吏を登用している。けど、それは狭き門だという。合格して官吏になっているのは結局公族貴族の舎弟だ。田舎者がいくら勉強しても官吏にはなれんよ」
子供相手に言い過ぎたと思った商人はちらりと振り返った。何暫は気にする様子もなく、本を読み続けていた。
「飛翔する鶴の心意気を地を這う雀が分かるはずもない」
商人の視線に気が付いた何暫が呟いた。
「変わった坊主だなぁ」
何暫の言葉の意味を理解できなかった商人は馬車の御に戻った。天高く飛翔する鶴は何暫自身のこと。地を這う雀は商人のことである。官吏を目指すという崇高な志を目先の小さな利益に齷齪する商人なんぞに分かるはずがないというのが何暫の気分だった。何暫は万事そういう調子だった。
無事に泉春に到着した何暫は叔父である何申の家に逗留した。叔父の何申は泉春で商人をしていた。
「よく来たな、暫」
何申とその妻は快く何暫を迎えてくれた。何申夫婦に子供がいなかったためでもあったが、叔父自身も何暫と境遇が似ているからでもあった。何申の兄―要するに何暫の父が泉冬近郊に有している土地を相続するため、次男坊はどうしても外に出なければならなかった。何申は泉春の商家に奉公する道を選ばされた。
幸いにしてというべき何申には商才があり、今では独立して十人程度の奉公人を雇うだけの商人になっていた。




