凶星の宴~39~
鳴々は外に出た。雨は相変わらず降っている。警備兵の姿は見えない。来た道を戻るように壁によじ登った。その時だった。わずかながら足音が聞こえた。
『まずい!』
鳴々は壁の上で息を潜めた。屋敷の陰から警備兵がこちらに来るのが見えた。だが、こちらは壁の上であり、しかも雨の日の夜である。気が付くまいと思った矢先、右足を滑らせた。
「何奴め!」
警備兵が矢を放った。その矢が右の脇腹をえぐった。
『ぐっ!』
声を出さず鳴々は壁から外に飛び降りた。そのまま痛みを堪えたまま呉頗の屋敷から離れた。警備兵が追ってくる様子はない。この場合、雨であることがまたしても幸いした。ぽとぽとと零れ落ちる血を洗い流してくれるし、足跡も消してくれる。が、同時に鳴々の体力も奪っていった。
怪我を負った鳴々の足は自然と譜乙の屋敷に向いていた。本来であるならば密書を盗み出すことに成功したのだから田解のもとに駆け込むべきなのだが、鳴々の帰巣本能のようなものが足を彼女にとって帰るべき場所へ向かわせていた。
鳴々が譜乙の屋敷に辿り着いた時、雨はあがり夜が明けようとしていた。見慣れた屋敷の外観が目に入ってくると、涙が出そうになってきた。
『こんなことはせず、譜乙様と結ばれたかった……』
心に安心が広がった。気が緩んだ鳴々は玄関を潜るとそのまま倒れこんだ。
「何だ……鳴々!」
すでに起床していた譜乙が顔をのぞかせた。物音を出した正体が鳴々だと分かると慌てて駆け寄ってくれた。
「どうしたんだ……そんな格好で……血が!」
譜乙はすぐに鳴々が血を流しているのに気付いた。すぐに寝台に運んでくれた。譜乙には多少の心得があるらしく、包帯などで傷口を手当てしてくれた。しかし、包帯はすぐに真っ赤に染まった。
「医者を呼ぼう!」
慌てて部屋を出ようとする譜乙の袖を鳴々は掴んだ。
「医者は……呼ばないでください」
呉頗の屋敷で矢を放った警備兵が手ごたえを感じていたかは分からない。だが、矢傷を負った患者がいたことが医者の口からどこかに漏れれば、呉頗の屋敷に忍び込んだこと自体が漏れるかもしれない。それはどうしても避けねばならないし、それに医者きたところで助かるまいと鳴々には思えた。
『それなら一層の事、愛した人の懐中で……』
人を愛する女として死ねるのであれば、自分のこれまでの人生は綺麗に清算される。だが、その前に最低限の仕事をしておく必要があった。
「これを譜申様……ですが、この傷のことは譜申様も知らぬことです」
鳴々は書状の入った革袋を譜乙に渡した。鳴々が呉頗が秘蔵していた書状を田解ではなく譜申に託したのは事ここに至っては頼れるのは譜申しかいないと思えたからだった。
「これは……どうして父上に?」
「乙様はどうか関わりなく……」
生きて欲しい、という言葉がでなかった。そうすれば譜乙はこれからも平穏に生きられるだろうし、鳴々の素性も知られずに済む。だが、書状が譜申の手に渡ればばれてしまうだろう。それが悲しくて鳴々は泣いた。
「鳴々……やはり医者だ」
譜乙が鳴々の手をそって払った。鳴々は渾身の力をもって譜乙の手首を掴んだ。
「いかないでください……乙様」
「鳴々……」
「乙様……愛しておりました。妻になれずとも、下女として屋敷で働き、愛してくださっていただき幸せでした」
「不吉なことを申すな」
譜乙はもはや医者を呼びにいくことはなかった。鳴々の右手を両手で包んでくれた。
「これよりは私のことを忘れ、どうか乙様は……幸せに」
この言葉に譜乙はどう答えただろうか。鳴々は聞くことができず、その手は譜乙の両手の隙間から零れ落ちた。




