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七国春秋  作者: 弥生遼
蜉蝣の国
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蜉蝣の国~8~

 「興奮されて卒倒されただけでしょう。日々の政務のお疲れもあるでしょうから、しばらくは安静にされればいいでしょう」

 樹弘の寝室から出てきた医師に深刻さがなかった。景朱麗はひとまず安心し、医師と入れ替わるように部屋に入ろうとしたが、景蒼葉に肩を掴まれた。

 「聞いていなかったの?しばらく安静よ」

 景蒼葉は明らかに怒っていた。何故彼女が怒っているのか、景朱麗は十分に分かっていた。

 「分かっている。でも、主上の様子が……」

 「姉さんの顔を見たら、また卒倒されるわ」

 そう言われて景朱麗はむっとした。別に樹弘は景朱麗だから卒倒したわけではない。景朱麗が伯国のことを進言したからであり、そのことで樹弘の不興を買ったとすれば損な役回りであった。ただ、そのことを恨むつもりはない。しかし、樹弘のあの激怒を目の前にして平静でいられるはずがなかった。

 「蒼葉、教えてくれ。私が悪かったのか?」

 「良い悪いということじゃないでしょう。誰かが言わねばならないことだったんだから。姉さんには申し訳ないけど……」

 「そんなことはいい。これでも丞相なのだからな。問題は、一度伯のことを話題にした以上、これを簡単に取り下げることはできない。主上には理解し、納得していただかなければならない」

 景朱麗が言わずとも、樹弘は必ず伯国とのことを話題に出すであろう。そうすればまた激しい口論となることは明らかであった。

 「ここは老いぼれの出番ですかな」

 気がつけばいつの間にか甲元亀が二人の傍に立っていた。

 「元亀様……」

 「亀の甲より年の功と申しますからな。私の場合、亀の字もありますから万事お任せください」

 甲元亀は戸を叩き、部屋の中へと入っていった。


 目を覚ました樹弘は、すぐに自分が寝室に運ばれたのだと分かった。景朱麗に対して激高したことも明確に覚えていて、興奮して卒倒してしまったのだと自身で納得した。

 『僕は人の上に立つ器じゃない……』

 樹弘はかっとなってしまった己を恥じた。国主となってから歴史を学び、過去の名君について知った。彼らはいずれも泰然自若として臣下を怒鳴ることもなければ、臣下に怒鳴られることもなかった。王者としての風格を備えていた。景朱麗に怒鳴り散らした樹弘など未熟以外の何者でもなかった。

 『しかし……戦争などしてはいけない』

 樹弘は相房と戦って国主となった。しかしそれは、相房の圧政から泉国を、民衆を解放するための戦いであった。正義の戦い、とまでは言わないが、せねばらない戦いではあったと思っている。

 だが、伯国と戦うとなればどうか。すでに伯国は国家として百年経過し、平安に暮らして国家に愛着を持っている民衆もいるだろう。いくら泉国と伯国に因縁があろうとも、今を生きる民衆には関わりのないことであり、そんな人々から平和な生活を奪うわけにはいかなかった。

 『たとえ朱麗さんに嫌われてもこればかりは譲るわけにはいかない』

 きっと景朱麗も自説を曲げないだろう。そうなればまた口論となるのは必定。樹弘は景朱麗と会うのが気が重かった。

 戸が叩かれた。景朱麗かと思ったが、名乗ったのが甲元亀であったのでほっとした。どうぞ、と声をかけると甲元亀が入ってきた。

 「困りますな、主上。この老いぼれよりも先に倒れられては」

 開口一番の軽口に樹弘は苦笑いした。

 「そうですね。元亀様の国葬で弔辞を読まなければなりませんからね」

 樹弘も自分でも驚くぐらいの軽口が出た。甲元亀は左様左様と笑いながら、寝台の傍で一礼した。座ってくださいと言うと、甲元亀は椅子を引き寄せて座った。

 「その元気があれば大丈夫でしょう。大よそのことは丞相から聞いております」

 「元亀様も伯国と戦うのは賛成なのですか?」

 「ふむ……。難しい判断ですが、基本的には賛成です。いずれ戦わねばならぬ相手なのですから」

 「元亀様まで……。しかし、戦争は国家の疲弊を招き、人の命を奪います。大義があるのかも知れませんが、そのために失うにしてはあまりに大き過ぎます」

 「勿論です。戦争など軽々しくするものではありません。しかし、大局でお考えください」

 「大局?」

 「左様です。我が泉国は主上の徳と臣下の努力により見違えるように復興してきました。それに対して伯国は経済的に困窮してきました」

 それは初めて聞く話であった。伯国の現状など気にも留めていなかった。

 「伯が自立できていたのは我が泉国が内乱で困窮したり、他国と戦争していたからこそです。その二つこそなくなれば、逆に伯が困窮するのは自明の理でありましょう」

 「経済的に行き詰った伯国が泉国を攻めてくると?」

 「可能性はないわけではないでしょう。しかし、今の伯にそれほどの国力があるとも思えません」

 「では、伯国の困窮を僕達が軍を起こして救うと?それが正義であるとは僕には思えない」

 「正義、不正義のことをここで論じるつもりはありません。確かに生活に困窮した伯の民衆を救うというのは美的行為かもしれませんが、臣が心配するのは伯の困窮によって流民が発生し、それが我が国に流れてくることです。そうなれば治安が悪くなり、職を奪われる者もおりましょう。主上の赤子が不安、不満に思う者もでて参ります」

 目から鱗とはまさにこのことであった。樹弘は伯国のことが泉国に波及してくる可能性を思慮していなかった。

 「伯国を放置しておけば我が国にも悪影響があるかもしれないということか……。政治とは難しいものだ。そこまで思い至らなかった。僕は名君には程遠い……」

 「ほほ。過去の名君のことなど気になさりますな。歴史上の名君の事跡など、紙に書かれたものだけ。実際にそのとおりであったかどうかなど確認しようがありません」

 要は今どうすれば賢明かということです、と甲元亀は言葉を続けた。

 「その判断は名君であれば最善の判断ができるわけでありません。最善の判断をした者が名君となれるのです」

 「朱関みたいな言い方ですね。そっくりです」

 「ほほ……ところで主上、一度、伯を見聞されてはいかがですか?」

 「見聞?」

 「左様です。今の私の言葉で主上は少しは心動かされたはず。しかし、ご自身の目で見なければご納得されないでしょう。ご自身の目で伯の現状を見、ご自身の耳で民衆の声をお聞きください。そのうえで最善の判断をなさってください」

 それが名君への道です、と甲元亀は締めくくった。 

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