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七国春秋  作者: 弥生遼
蜉蝣の国
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蜉蝣の国~7~

 日を改めて景朱麗は、伯国のことを上奏するため樹弘を訪ねることにした。

 『気が重い……』

 樹弘は間違いなく反対するだろう。これまで樹弘と景朱麗はほとんど意見を対立させたことはない。あったとしても相手にある程度の道理を認めているから、どちらかが折れることで決着を見てきたが、今回の件で樹弘が折れるとは到底思えなかった。

 『それでも主上には知ってもらわねばならない。主上が泉国の国主である限り……』

 樹弘が泉国の国主である以上、伯国との因縁は避けては通れない。景朱麗は歩きながら決意を硬くした。

 樹弘の私室の前では景弱が佇立していた。彼は景朱麗の存在に気がつくと敬礼をした。

 「主上はおられるか?」

 「おられます。主上、丞相がお見えです」

 景弱が部屋の外から声をかけると、どうぞ、と返ってきた。景朱麗はゆっくりと扉を開けた。

 樹弘は私室でひとりで習字をしていた。

 樹弘は文字を覚えて以来、字を書くことに楽しみを感じるようになっていた。今では政務を行う上で支障がないぐらいの文字を覚え、勅状などは真筆でしたためていた。さらに過去の能書家の文字を臨書するようになり、それが半ば趣味のようなものになっていた。

 「精が出ますね、主上。蘭逸の臨書ですか」

 樹弘の周りには文字が書かれた紙がいくつ並べられていた。樹弘が字を覚え始めた頃に比べると随分と上手くなっていた。蘭逸は二百年ほど前に実在した天才的能書家で、臨書のお手本とされていた。

 「難しいね、蘭逸は。ところで用件は?」

 樹弘は筆を置き、椅子に座った。景朱麗にも着座を促した。

 「本来ならば朝議の場で上奏すべきことなのですが、すでに閣僚の意見は一致していることですので、直接ご裁可をお伺いしに来ました」

 樹弘は少しばかり顔をゆがめた。樹弘は秘密裏に物事を進められるのを極度に嫌った。しかし、国主である樹弘が細かな法案や政策に首を突っ込んでいてはきりがないので、ある程度は閣僚に委ねることにしていた。それでも樹弘は必ず報告を義身付けていた。

 「聞きましょう」

 景朱麗は乾いた口を開いた。景朱麗の緊張が伝わったのか、樹弘はいつになく険しい表情になっていた。

 「相家を打倒し、内乱が終息して三年。主上の威徳によって目覚しい復興をとげ、すでに以前の泉国と変わらぬようになってきました」

 樹弘は黙っている。景朱麗は続けて話した。

 「主上も我が国と伯との関係はご存知でありましょう。我が国は百年前に伯起によって領土を奪われました。元来、我らが故地を取り戻す時機が到来したのです」

 景朱麗は言葉を選び婉曲に伝えた。少しでも直接的な表現を避けて樹弘の気分を和らげるつもりであった。しかし、明敏な樹弘にはそれが通用しなかった。彼は景朱麗が言葉を続ける間もなく、その先を察することができた。

 「僕に侵略戦争をしろというのか!」

 樹弘は机を叩き、憤然と立ち上がった。樹弘と出会って以来、これほど激怒した樹弘を景朱麗は見たことがなかった。本来であるならば、主上である樹弘を激怒させたことについて、恐縮し平身低頭謝罪しなければならないのだが、景朱麗としても譲れないところであった。

 「主上、お言葉を返すようですが、これは侵略ではありません!我らにとっては失地回復です!」

 「先人のことはいざ知らず、現在では伯は立派な国家ではないか。我が国とっても伯国にとっても民の無駄な血が流れ、生活も荒んでしまうではないか!」

 樹弘は痛いところを突いてきた。民草のことを言われれば、景朱麗としても彼らを犠牲にして成すべきだとは主張できなかった。だが、それでも譲る気にはなれなかった。この機を逃せば、いつ伯国を併呑する機会が訪れるか分からなかった。

 「主上、大局で物事をご覧になってください。伯を併呑することで伯の民衆も救われるのです」

 「詭弁だ!丞相!」

 樹弘の声が枯れた。景朱麗は言葉が出なかった。樹弘の剣幕も勿論であるが、樹弘が景朱麗のことを役職名で呼んだのはおそらくは始めてであった。それが景朱麗にとっては胸をえぐるほど恐ろしかった。

 「主上……私は……」

 なんと言うべきであるか。景朱麗は適切な言葉が思い浮かばなかった。樹弘の不興を買った。樹弘に嫌われてしまった。そのことが景朱麗のという女性の精神を伝染病のように蝕んでいった。

 「丞相、君は……」

 樹弘は肩で激しく息をしていた。そして、ぷつりと張詰めた糸が切れたように樹弘は前のめりに倒れた。

 「主上!」

 景朱麗はあわてて立ち上がり、倒れこむ樹弘を抱きとめた。樹弘は激しく息をしながらも、自らの意思で起き上がることはなかった。

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