黄金の瞬~101~
岳全翔にとって、新判を出て出撃するのはほぼ初めてのことだった。単に新判を出るのではなく、印国の奥深くに侵入しなけばならなかった。
「兵車を使えば鑑京まで一週間程度で行けましょう。しかし、その間に三つの大きな邑があります」
岳全翔にとっては未知の地だったが、副将として付いてきた印進の存在が心強かった。当然のことながら彼は印国本土の地理に精通していた。岳全翔は出撃する前に印進と詳細な打ち合わせをしていた。
「三つの邑はどれも城壁があります。中に籠っている兵数が少ないとしてもこれを陥落させるのは容易ではありません」
「その三つの中で比較的落としやすいのはどれですか?」
「按陽でしょうか」
印進が地図上の一地点を指さした。按陽という邑は新判と鑑京のちょうど真ん中あたりである。
「よし、そこだな」
「ここを落とすのですか?」
「いや、落とす必要はない。ここで物資の補給ができれば十分です」
それ以外は無視です、と岳全翔は言い切った。岳全翔の思い切りのいい作戦に印進は感嘆するばかりだった。
岳全翔軍は驀進した。途中で印国軍にまるで気が付かれなかったのは、印国軍のほぼ全軍が隗良軍と章堯率いる艦隊を構成するために出払っており、定期的な哨戒任務さえも行われていなかった。このことは完全に章堯の落ち度であり、岳全翔軍からすれば無人の広野を行くようなものだった。岳全翔軍は按陽を瞬く間に囲んだ。
「囲むのは遠巻きでいい。その代わり軍旗を沢山立てて、こっちが大軍であると思わせるんだ」
岳全翔は戦わずして按陽を開城させようとした。その効果は効果的で、按陽の守備隊はすぐに開城を申し出た。彼らからすると海嘯同盟軍の出現は青天の霹靂であり、全軍が出払っている状況で援護も頼めない以上、降るしかなかった。
「我々は按陽を占領するつもりはない。二日の休養と食糧を分けてもらえればそれでいい」
岳全翔は按陽に使者として印進を派遣した。海嘯同盟の自分が行くよりも、元印国軍の印進が行った方が開城する側も精神的に緊張しないだろうという判断だった。
印進は交渉を速やかに終わらせた。岳全翔軍は按陽の外に天幕を張り、休養と食糧の補給を行った。そして二日経つと風のように去っていった。按陽の守備隊からすれば瞬く間の出来事だった。
あとは以前と同じように鑑京に向けて邁進するだけだった。やはり敵と遭遇することはなく、一兵も損じることなく鑑京まで三舎という距離まで到達することができた。
「まさかこうして生きて鑑京を目にすることができようとは……」
印進は常に軍の先頭に立ち、岳全翔の兵車団を牽引してきた。鑑京のある方向を遠望しながら、感慨ひとしおとばかりに目に涙をためていた。
「印進殿。まだ気が早いですよ」
そういう岳全翔としても気分が高揚しないでもなかった。海嘯同盟の歴史の中でこれほど印国の奥深くまで侵出した者はいない。岳全翔はその初めてという栄誉を担うことになった。
『だが、その栄誉も本島が占拠されないということが前提だ』
岳全翔の読みではそろそろ新判を攻めんとしていた隗良がこちらの存在に気が付いて反転して始めていてもおかしくな頃合いである。早々に鑑京を囲まなければならなかった。
『我々が鑑京を囲んで章堯に報せが届く前に隗良が帰ってきては意味がなくなる。あとは天に祈るのみだな』
岳全翔からすればまさに薄氷の上を歩くようなさ作戦だった。いくら印国軍が総出で出撃しているとはいえ、これだけの戦力で鑑京を陥落させることはできない。後はまさしく時間との勝負でもあった。
「岳隊長。私はあなたの作戦を全面的に支持していますが、個人的には鑑京を落とすことは可能ではないかと考えています」
印進が思わぬことを言ったので、岳全翔はやや困惑した。何事にも慎重な岳全翔は、当初作戦を目的を変更することを嫌っていた。
「いくら敵が総出で出撃しているからと言って守備隊がいないわけではないだろう。それに我々は攻城兵器を持っていない。囲って脅すぐらいが関の山じゃないかな?」
「章堯が知っているかどうかは分かりませんが、鑑京には昔より我ら印氏しか知らぬ抜け道があります。そこを行けば鑑京の内部に潜り込むことができますが……」
印進の進言に岳全翔は心動かされた。もしそれができれば、鑑京占領も夢ではないかもしれない。
「分った。では、早速その調査をお願いします」
承知した、と印進は溌剌と返事した。岳全翔は一旦、進軍を停止することにした。




