黄金の瞬~88~
南下する章堯軍に対して鑑京は無血開城となった。鑑京を防衛すべき軍隊と指揮官が不在である以上、印国軍最大の戦力である章堯軍を迎え撃つなどできるはずもなかった。寧ろ、鑑京の人々は章堯に期待を込めてこれを迎えた。
「これで章堯将軍が丞相だ」
「いや、もはや国主であろう。章家の名跡を継いでいるから不可能ではない」
「章堯様、万歳!」
民衆達は挙って章堯を歓迎した。彼らは章堯という若き英才に印国の未来を見ていた。それは民衆だけではなく、国軍に中におり、鑑刻宮の官吏の中にもいた。彼らは総じて印家による支配によって印国が国家として倦んでいるということを明敏に察知していた。
「この様子ならばすぐさま国主となられても問題ありますまい」
鑑京の大路を馬上で進む章堯の傍らで魏房が囁いた。章堯は大路に詰め掛けた民衆に愛想を振りまきながら小さく頷いた。すでに陣中には姉である章銀花を保護しており、章堯としては後顧の憂いがなかった。
「後は高国が神器を確保してくれているかどうかだが……」
「私も神器のことを気にかけていましたが、民衆の子の歓待ぶりを見れば、もはや神器する必要あるまいと思えてきます」
「おいおい、それでは篆高国の働きが徒労になるではないか」
「それでは将軍が慰労ください」
慰労か……。慰労程度では篆高国への功績を報いることができないだろう。
『そうだ。姉上との婚姻を認めよう。それが高国への最大の恩賞かもしれない』
もはや章銀花と篆高国が自分に内密にして愛を通じ合わせていたことへの蟠りはない。いや、歓迎すべきなのだろう。愛すべき二人の人が夫婦になるのだから。
「魏房。鑑刻宮に着けばこれからのことを色々と相談せねばなるまい」
「心得ております」
配下への恩賞、人事など決めねばならぬことは山積しているが、章堯の中では姉と篆高国の中を認めることができただけでも肩の荷が降りていた。
章堯は鑑刻宮に辿り着けば篆高国が待っているものと思っていた。しかし、鑑刻宮の門前で章堯を迎えた者達の中に篆高国の姿はなかった。
『高国の奴、どうかしたのか?』
多少不安がよぎった章堯のもとに一人の官吏が駆け寄ってきた。何事か耳打ちすると、顔を真っ青にして走り出した。
「将軍……」
「魏房。どうしたのだ?」
隗良が聞いてきた。すぐ傍にいた魏房も耳打ちされた内容は分からなかった。
「分からん。隗良、お前は部隊を率いて鑑刻宮を完全に制圧してくれ。私は将軍を追うから数名の兵士を貸してくれ」
「了解だ。おい、そこの五人は魏房と一緒に行け」
兵士が付いてくるのを確認することなく、魏房も走り出していた。
章堯は一人の祭官の案内で地下の祖廟に向かった。耳打ちされた内容は篆高国と印無須の死体があるというものだった。
『そんな馬鹿な!』
何かの間違いに違っている。印無須の死体などあってもなくてもいいが、篆高国の死体があるという信じられないし、考えたくもなかった。
幾度か転びそうになりながら祖廟に到着すると、暗い祖廟の中心で印無須と篆高国がまるで抱き合うように倒れていた。
「高国!」
乾ききっていない血を跳ね上げながら章堯は篆高国を抱き上げようとした。しかし、篆高国の腕はだらりと垂れ下がり、握られていただろう短刀がからんと落ちた。
「これは……篆殿と主上……」
やや遅れて魏房が駆けつけてきた。彼の存在など気が付いていないかのように章堯は、高国高国と何度も名前を読んで涙を流した。
「これを見たものは誰と誰だ」
連れてきた兵士を階上に置いてきて正解だったと安堵した魏房がその場で戸惑っている祭官に聞いた。
「私ともう一人の同僚です」
「よし。お前達二人は子々孫々に至るまで祭官としての役職を保証する。だからここであったことを公にするんだ。印無須は神器を持ち出そうとしたが、引き抜くことができず、それを篆殿に見咎められた。そこで二人がもみ合いになって互いに互いに短刀で刺し違えて亡くなった。いいか、分かったか?」
国主である印無須と章堯の腹心である篆高国が刺し違えたという情報だけが表に出ると、まるで篆高国が暗殺したみたいに取られてしまう。そうではなく印国国主である印無須が神器を手にすることができずに、それを見られた篆高国と刺し違えたという物語を付け加えたことで様相が随分と変わってくる。印無須は神器に認められなかった国主ということになり、篆高国の振る舞いは決して暗殺ではないということになる。この窮状を乗り切るにはそれしかなかった。
「承知しました」
「よし行け。約束を違うのなよ。もし違えば、真逆の結果になると思え」
承知しております、と祭官は声を震わせて祖廟を出ていった。
「将軍……ひとまず参りましょう。まだ成さねばならぬことがあります」
魏房が声をかけたが、章堯は聞こえていないのか嗚咽を続けていた。
「将軍。半刻ほどお待ちします。それまで大いにお泣きください。しかし、それ以上は誰も待てませぬ」
では失礼します、と言って魏房は章堯を独りにした。章堯は何も言わず、泣き続けた。




