黄金の瞬~86~
「主上は奸臣華士玄によって酒浸りにされ操られている。それで私はあらぬ罪を着せられ排斥されようとしている。私としては奸臣を討ち、主上をお救い申し上げる」
章堯は全軍に対して鑑京に兵を向ける理由をそのように説明をした。その言葉を真に受けて信じる者もいれば、理由はあくまでも建前で章堯が実権を取りに来ていると察する者もいた。いずれの者にしても全ての兵卒が章堯についていくことを選択した。誰しもが印無須という主君に失望しており、章堯という若い将軍に国家と自己の未来を託そうとしていた。
もし、兵卒が戦というものに純粋な正義を求めるとすれば、それは自己の生存と将来の生活のためであろう。国家的な大義などは建前でしかなく、自己の暴力的な手段を正統化する方便でしかなかった。章堯はそれを最大限に活用した。
「私は諸君達に約束する。本来ならば諸君達に渡るはずであった給料などが心ない閣僚によって搾取されてきた。私をそれを改め、諸君達の生活を向上させる」
章堯のこの言葉は単なる軍制上の改革を意味していなかった。章堯が将軍以上の地位を得れれば、付き従って来た兵卒、武人達は必ず日の目を見る。それが分かるからこそ、彼らの忠誠心は印無須から章堯に移ったのである。
章堯軍の南下は鑑京を動揺させた。
章堯が攻めてくる。そのことは間違いなかったが、だからと言って章堯を非難し、印無須や華士玄を支持する者はいなかった。
「印無須など章将軍の力を借りねば国主になれなかった男だ。華士玄などそのくっつき虫に過ぎない」
「いや、進んで章将軍のために城門を開けるべきでないか?」
などという会話が公然と鑑刻宮で行われている最中でも印無須は酒浸りになっていた。寧ろ酒量は多くなり、酒を飲むことで現実逃避しているようでもあった。
「卿は酒も女も少ないではないか!」
印無須は無人の部屋で空になった瓶を揺さぶり、地面に転がした。瓶が音を立てて転がるだけで、それを拾い上げる者はいなかった。すでに多くの寵姫が逃げ出し、世話をする宦官達も日ごとに数が減っていった。それでもまだ残っている者達は、印無須と命運を共にすることを決意したというよりも、印無須と同じように享楽に溺れることで迫りくる危機から目を背けようとしているだけであった。
「宦官達はどうした!士玄はどうした!」
士玄を呼べぇ、と印無須は叫んだ。しばらくすると幽鬼のような顔をした華士玄が入ってきた。
「士玄、酒だ。酒を持ってこい」
「主上、私は世話役ではありません」
丞相です、と消えそうな枯れた声で応じた。印無須は露骨に舌打ちをした。
「使えん奴だ。今日限りで丞相は馘だ。世話役に降格だ」
印無須は立ち上がろうとして倒れた。足がふらついてまともに歩ける状態ではなかった。
「主上、長らくお世話になりました。私程度の男が丞相となれたこと自体、夢のまた夢でした。実力のない者が運よく丞相となったところで、世話役上のことができるはずもなかったのです」
華士玄は懐から丞相の印璽を取り出し、床に置いた。
「私はこれで救われます。章堯が私を許すかどうかは分かりませんが、死にたくはありませんから、命乞いをするつもりです」
起き上がった印無須がじっと恨めしそうに章堯を見ている。
「救われているのか?それは」
「少なくとも心は救われました。清々しいとは言いませんが、すっくりとした気分です」
ご健勝を、と言って華士玄は背を向けた。
「おい!俺はどうすればいい!」
「ご自身でお考え下さい。印国の国主として相応しい振る舞いを」
最後の最後ぐらいはなさってください。華士玄は寂しそうに呟いて去っていった。
「国主……そうか俺は国主だ!神器があるじゃないか!神器を使えば章堯なんて一撃で終わる」
神器だ、と叫んだ印無須は縺れる足で部屋を出ていった。章堯軍はすでに鑑京近郊に到着していた。
同じ頃、篆高国は鑑刻宮に潜んでいた。章堯の南下を知ると警執を辞して鑑京に潜伏していた。
『やはり章堯様は決起したか』
すべては篆高国の読み通りだった。まずは章銀花を鑑京から脱出させようとしたが、すでに何者かの手引きによって章堯の私邸は無人になっていた。魏房の手際であろうか。
「そうなると後は神器の在り処を知っておくべきか」
章堯は国主になるとすれば、神器を押さえておく必要がある。魏房の主張は尤もだと思っていた。章堯は神器に認められるかどうかは別として、神器は色々と使い道があるし、誰かに使われることを阻止することもできる。篆高国は迷うことなく鑑刻宮に戻った。




