黄金の瞬~84~
反乱を起こしたのは文慈に駐屯している部隊だった。文慈といえばかつては印無須の拠点であり、印無須が国主になってからは国主の直轄地となっていた。
そこには五十名ほどの兵士が駐屯しており、部隊長は馬畢という青年将校だった。彼は磯一、安輝などと気脈を通じており、彼らが鑑京で決起しながらも闘死したことに憤慨していた。
「彼らは正義のために立ったのに、一言の弁明も受け容れられず殺された。私も鑑京にいれば共に参加したのに……」
こういう気分を引きずっている青年将校は少なくない。彼らのような立場の武人は、印無須によって印一族が悉く印国の重要な地位から追放されたことによって富と地位の分配が公正に行われ、それによって自分達の生活もよくなると信じていた。
特に文慈は印無須のかつての領地であったということもあり、恩恵が受けられるものと思っていた。しかし、印無須が国主になってもかつて世話になった文慈のことなど顧みることなどなかった。寧ろ印無須が去ったことにより、出入りしていた商人が次々と引き上げ、文慈は経済的に苦しい邑になってしまった。兵卒の中には自分の給料だけでは家族を養っていくことができない者も少なからずいた。
「馬隊長!このままでは妹が身売りされてしまいます!」
「隊長。病気の母のために少し給料を前借したいのですが……」
そのような声をよく聞いていた馬畢が磯一達と気脈を通じているのは当然だった。馬畢は鑑京での壮挙を知るに及んで、自らも立つことを決意した。
「諸君!諸君達がこのような生活を強いられているのは全ては主上とその身辺に侍る奸臣どものせいだ。我らはこの地で正義の産声をあげ、鑑京で散った英霊達に続くのだ!」
兵卒から信望のある馬畢が決起を声高に宣言すると、駐屯する兵卒の全てがこれに賛同した。彼らは手始めに文慈に派遣されている文官を追い出し、自分達が決起した趣旨の声明文を鑑京に送り付けた。そこに書かれていたことは磯一達の趣意書と変わらぬ内容であり、さらに加えて印国軍兵卒への待遇強化も盛り込まれていた。
文慈と追い出された文官が声明文を携えて鑑京に逃げ帰ってくると、朝堂は騒然とした。鑑京での騒動が沈静化してまだ間もないだけに、閣僚達の動揺は激しかった。
「今すぐ鎮圧すべきだ。軍を差し向けよ」
華士玄は絶叫するように命じた。しかし、朝堂には将軍達の姿はなかった。章堯は辞意を表して私邸に引き籠っており、それに同調するようにして将軍達も理由をつけて朝議への参加を拒んでいた。
「丞相……」
閣僚の一人が憐れむように声をかけた。華士玄は声の主の方を見ず、くぼんだ眼を血走らせていた。その場にいた誰しもが華士玄の政治的寿命も長くないだろう思った。
「ひとまずどうするか主上のご裁可を仰ぎましょう」
別の閣僚が進言した。華士玄は誰が言うのだと叫んだ。
「丞相しかおりますまい」
「う……うーむ」
華士玄は苦しそうに呻くとふらふらとした足取りで印無須の寝室に向かった。
度重なる華士玄の訪問と彼の口から語られる凶事に、印無須の寛容さは完全に吹き飛んだ
「どいつもこいつも!俺の言うことが聞けないのか!」
印無須は杯を華士玄に向かった投げた。杯は当たらなかったが、中に入っていた酒を華士玄は浴びることになった。
「……いかが処置いたしましょう」
華士玄がを拭くことなく訊ねた。
「殺せ!かつての俺の領民でも許さん。捻り潰せ!」
「主上、決起したのは兵卒だけであり、民衆は……」
「知るか!どうせ協力しているはずだ!皆殺しにしろ!」
印無須の目は狂気に満ちていた。もはや国主としてではなく、人としての判断もできなくなっていた。
『この時の印無須は明かに正常な判断ができなくなっていたと推測される。その原因は過度という言葉を遥かに過ぎた飲酒と多淫のためであろう』
後世の歴史家は口を揃えて分析している。この分析が正しいかどうかは別として、印無須がもはや正常な意思決定ができない状態にあるのは確かだった。
「そう申されましても……将軍達は……」
「章堯にやらせろ!自宅謹慎しているのなら引きずり出してでも行かせろ!」
分かったか、と印無須は怒号を落とした。華士玄は声が出せず、首肯するだけだった。
印無須の命令はすぐに章堯の私邸に届けられた。章堯は家宰に受け取らせて、自らは使者に会わなかった。
「さて、ここまでは計画通りだ。流石は魏房というところだな」
印無須からの勅状をぱっと一読した章堯は投げ捨てるようにして魏房に渡した。
「畏れ入ります。では、いよいよ」
「ああ。主上のご命令とあれば従わねばならんな。使者には承知したと伝えろ」
それと出陣の準備だ、と章堯は命じた。




