黄金の瞬~74~
本島で陰謀が進行している最中、新判は平穏そのものだった。
新判の東に設けた見張り台からは毎日、三回に分けて報告がなされる。石硝は毎日毎日、敵影なしという報告を岳全翔に伝えていた。
「印無須が即位して一年経ちますけど、未だに攻めてくる気配を見せないというのはどういうことでしょうか?」
「敵が来ないというのはいいことだよ」
「それはそうですが、印国はこれまで一年に一度は当方を攻めてきました。それがないというのはどうも不気味です」
「不気味ね……。これほどまで平和な状況を不気味に思うなんて、我ら軍人というのは困った生物だ」
「……すみません」
「謝ることはないよ。私も不気味に思っていたんだ」
新判の守備兵力は先の戦争以前にまで回復している。来るなら来いという気構えをしていた岳全翔はやや拍子抜けしていた。
「失礼します。本島から連絡便が到着し、書類をお持ちました」
扉が叩かれ、芙鏡が入ってきた。母の死から立ち直りつつある彼女に岳全翔は石硝の仕事を手伝わせていた。仕事をしていれば気も紛れると思ったからだった。
「ありがとう、芙鏡さん。どれどれ……我らが本島も平穏そのものだね」
本島の禹遂からの報告書を一読した岳全翔は石硝に渡した。報告書には『本日も異常なし』と書かれていた。
「先程の話ですが、印国からしてもこれから未来永劫攻めないということはないと思いますけど?」
「そりゃそうだ。だけど、何も分からないんだよな」
鑑京には海嘯同盟の密偵が複数入り込んでいる。それらから流れてくる情報を統合して考察してみても、印国軍が海嘯同盟を攻めてこない理由が見当たらなかった。
「精々、印無須が権力者になって放蕩三昧をしているという程度だ。そんな為政者は過去にもいたし、出征も行われていたからな」
出征しない理由にはならないだろう、と岳全翔は思っていた。それに印無須にやる気がなくても章堯が動くだろう。あの野心溢れる若き将軍が苦杯を飲まされたまま引き下がるとも思えなかった。
「兎に角、平和が一番だよ。芙鏡さん、お茶を淹れてよ。三人分ね」
岳全翔は書類を渡してから所在なさげにしていた芙鏡に声をかけた。はい、とやや嬉しそうに給湯室に向かった。石硝が書類を片付けるために棚に向かおうとしたが、急に立ち止まった。
「隊長、これが報告書の封筒に入っていました」
石硝が小さく畳まれた紙片を差し出した。岳全翔が広げて読んでみると、禹遂からの密書だった。一読すると驚きを交えて声を絞り出した。
「商人達が石豪士首座を排斥しようとしているらしい」
「まさか……」
石硝が口に手を当て驚いていた。茶を持ってきた芙鏡もにこやかな顔を曇らせていた。
「これはまずいぞ……」
「確かに。今はまだ印国軍の動きは見えませんが、こちらの内輪もめに乗じて攻めてくる可能性もあります」
石硝が言う懸念もあった。しかし、それ以上に岳全翔が不安視することがあった。
「それもあるけどね。問題なのは石豪士執政官がどのような手法で排斥しようとしているかだ」
「どういうことですか?」
「現行の同盟の規則では執政官の罷免は簡単ではないんです。まぁ、事実上不可能という感じなんです」
芙鏡の疑問に石硝が答えた。
「そうなれば法律に沿った手段が取られないということだ。いくら石豪士首座に落ち度があるとしても、非合法な手段で排斥されたら商人達の選挙によって執政官を選ぶという理念が崩壊してしまう」
これでは何でもありになる、と岳全翔は嘆息した。
「ですが、私としてはあの石豪士が執政官の地位を去るのではあれば喜ばしいと思います」
芙鏡の言葉は偽りのない本心なのだろう。母である芙桃が亡くなったのは、完全に石豪士のせいではあると芙鏡は信じているようだった。ただ、言い終えてからしまったというような顔をした。石硝が石豪士の姪であることを思い出したようだった。
「気にしないでください、芙鏡さん。伯父とはいえ首座のやったことには憤りを感じていますから」
芙鏡がほっとして顔を緩めた。
「まぁ、まだそうと決まったわけではないからな。商人達も強硬な手段を取れば、いずれそれは自分達の首を絞めることになると分かっているだろう」
この時の岳全翔はやや楽観していた。禹遂の報告は噂程度のもので、実際に何事か起こるにしてもまだ先であろうと思っていた。しかし、事態は岳全翔の楽観を無視し、遥かに超越した事態へと発展していくことになる。




