黄金の瞬~65~
隗良軍が奇襲を受けて一時的に後退したと知った章堯は眉をしかめた。
「隗良ほどの武人を撤退させるのだ。敵は相当やるぞ」
章堯は気を引き締めた。この時になって敵がこの前自分が苦杯を飲まされた相手ではないかと章堯は気が付いた。
『どういう奴か分からんが、嫌らしい戦いをする奴だ。注意をしないとな』
それでもまだ自分達が敗北するとは思っていない。どうあれ新判を占拠して勝利するだろうという未来図に変更はなかった。
「我らも細心の注意を払え。夜襲もあり得るぞ」
章堯軍本隊はまだ山間の狭隘な道に差し掛かっていない。そこに陣を築いている。数で劣る敵がここまで襲ってくるとは思っていないが、それでも用心するに越したことはなかった。
その夜、章堯軍は夜襲を受けた。しかし、これもまたわずかに交戦するだけで敵は引き上げていった。
「ふん!同盟の奴らは俺達に対して威力偵察でもしているつもりか」
章堯は多少不快に思いながらも、明日以降の戦闘について思考を巡らせた。
新判近郊に到着して一週間。戦局は遅々として進まなかった。新判へと繋がる道は奇襲を受けやすく、一日進んだ分だけ次の日には後退を余儀なくされるという状況が続いた。
それだけではない。章堯軍本営への夜襲も散発的に発生し、将兵は一日中緊張を強いられて疲弊していった。それと同時に章堯の苛立ちも日に日に募っていった。
「俺は自分で我慢強い方だと思っていたが、そうではないらしい。ここ数日の戦闘はいかにも我が配下の勇将らしくない」
章堯は本営に隗良と左沈令を呼び出した。激励するつもりだったが、口から出る言葉は叱責になってしまった。
「面目御座いません。臣としてはここでの戦闘は武人の恥と思っております」
隗良が深く陳謝した。それで行き過ぎた叱責だったと気付いた章堯は、ひとつ大きく息を吸い込んだ。
「謝ることではない。堂々たる会戦であるならば隗将軍に勝てる相手はそういないだろう。しかし、こうも地形に拠られた奇襲をされると武人としての実力も発揮できぬだろう」
章堯の苛立ちは隗良や左沈令に向かっているのではなく、正面切って戦わぬ敵とそれに翻弄されている自分に対しての苛立ちだった。
「将軍。このままでは埒があきません。敵はあの山に籠り、縦横無尽に出没しては奇襲を仕掛けてきます。危険をはらみますが、山に登って敵の拠点を潰していった方がよろしいかもしれません」
魏房が進言した。章堯も同様のことを考えていた。多少の犠牲を強いてでも、敵の拠点を潰さねばいつまで経っても新判の門前に辿りつかないだろう。
「そうだな。それしかあるまい」
華々しさにかける戦いは章堯にとって不本意だったが、今はそれしか選択肢がなかった。
章堯の不本意は、岳全翔にとっては本意だった。
「印国軍の皆さんは相当苛々しているはずだ。そろそろこの山を攻めてくるだろう」
岳全翔は章堯の次なる一手を完全に予測していた。後世、岳全翔は稀代の戦術家とされ、章堯を唯一勝たせなかった天才、という異名を与えられるのだが、もしそのことを岳全翔が知れば苦笑して否定しただろう。
「私のやっていることは戦術でもなんでもない。ただの嫌がらせだ」
後日、新判での攻防戦のついて聞かれた岳全翔は、そう言って興味を持って訪ねてくる人々を煙に巻いた。だが、一連の戦闘の流れを俯瞰的に見つめれば、全て岳全翔の描いた脚本通りに進んでした。
「まず敵が攻めてくるとすれば東側の中腹にある第一砦だ。ここでしっかりと敵を防ぎつつ、麓の敵への奇襲も継続して行う」
無尽蔵のような大軍を擁する章堯軍に対して、岳全翔が率いる新判守備隊は極めて兵の数が少なかった。しかも、本島からの援軍が来るにしても時間がかかる。新判守備隊の将兵は不眠不休を強いられた。それでも彼らがそれを遂行できたのは、将帥としての岳全翔を信頼していると同時に、ここが海嘯同盟にとっての最後の砦だという共通の認識を一兵卒に至るまで持ち合わせいたからだった。。
実は岳全翔は新判守備隊の隊長になった時、守備隊の構成を再編成した。具体的には傭兵を守備隊の中に組み込まず、生粋の海嘯同盟の軍人だけを組み込むことにした。
『傭兵は強いが、負けが込んでくると逃亡するか敵に寝返る。野戦であればまだいいが、ひとつの進退が敗北に繋がる籠城戦ではそれでは困る。強固な意思疎通ができる人員だけで守備隊を結成した方がいい』
岳全翔は再編成の意図をそう説明していた。海嘯同盟軍の最大の弱点を岳全翔は正確に理解していた。理解しているからこそ、岳全翔は章堯に負けない戦い方を選んだ。




