黄金の瞬~63~
空が白む頃には段至瑞軍はすでに跡形もなくなっていた。隗良軍を追ってきた章堯は隗良から戦況についての報告を受けた。
「すでに敵は軍として態勢を保っておりません。しかし、敵の大将である段至瑞には逃げられました。申し訳ありません」
「気に病むことはない。夜間という状況で敵を蹴散らした手腕は見事だ」
章堯は隗良を褒めた。傍らに立つ魏房は嬉しそうに頷きつつも、参謀として進言することも忘れなかった。
「将軍。左将軍も奇襲部隊を蹴散らして追撃の準備を始めています。我らも進軍し、そのまま新判に参りましょう」
「無論だ。俺達は隗良軍と共に逃げた敵将を追う。左将軍はそのまま奇襲部隊を追撃するように命じよ。そして松将軍は北上し、北側から新判を肉薄せよ」
章堯は勢い乗じて新判を包囲するつもりでいた。しかし、進軍しようとする章堯のもとに印中員の首が届けられたため、一時的に進軍をやめることになった。
印中員の首が章堯の前に据えられた。その後ろには印中員を弑た者達が居並んでいる。死して首だけになった印中員の顔はとても穏やかだった。
『憐れな男だ。印氏に生まれなければ、夫子として過ごせたかもしれないものを……』
今回の征旅は印中員を擁立した海嘯同盟を討つことにあった。要するに主たる目的は印中員の存在であり、それが死したとなれば征旅の大義の半分を失うことになる。しかも、もう片方の大義である海嘯同盟軍が大敗して逃げ出したとなれば、ここで鑑京に引き返しても章堯として十分に目的を果たしたことになる。しかし、章堯としてはこれで良しとはしたくなかった。何としても新判を落として見せたかった。そのためには征旅の大義の核である印中員の喪失は都合が悪かった。
「一つ聞く。中員の死を口外していないだろうな」
章堯は印中員の首を持ってきた者達の兵士達に聞いた。
「勿論でございます。この首、将軍の手柄をしていただくために口外しておりません」
隊長格の男が自慢げに言った。章堯は安心し、魏房に耳打ちした。
「この者達は主である印中員を弑た不忠者だ。印国にはそのような卑怯者は不要だ。殺せ!」
魏房が命じると、心得たとばかりに衛兵が首を持ってきた者達を殺害した。
「これで中員の死を知る者はここにいる者だけだ。新判を占拠するまではこの事実を伏せておくように」
章堯が言うと、衛兵達は頷いた。彼らは体の奥底まで章堯に忠誠を誓っているのでまず外に漏らすことはないだろう。
「印中員はまだ生きている。同盟軍を追うぞ」
章堯はすぐに進軍の再開を命じた。
海嘯同盟軍は一夜にして崩壊した。これまで印国本土における会戦で海嘯同盟は局地的な勝利はあっても、最終局面で勝利を飾ったことはなかった。それでも今回のようなわずか一戦で全軍が崩壊するような大敗もなかったのだが、理葉の夜戦はその一例を作ってしまった。
海嘯同盟軍の主将である段至瑞はわずかな供回りを連れて逃げ出していた。
常識ある軍人であるならば、朝を待って敗残兵をまとめ、敵が新判に至るまでにもう一戦挑むものだが、段至瑞の脳にはそのような定理はなかった。ただ自分の命が助かるためだけに逃げ続けた。
しかも、後に人々の非難の的になったのは新判に逃げず、新判に近い浜辺に停泊しては小船に乗って本島へと逃げたことだった。これは段至瑞が予め自分一人が逃げるための準備をしていたと受けとられ、敗残の処理を新判の岳全翔に押し付けたと批判された。段至瑞はいずれの批判も的外れだと否定したが、そのことがさらに彼の印象を悪くする結果になった。
新判の岳全翔は段至瑞軍が夜戦において崩壊したことをまだ知らない。それでも自分の出番がある時は段至瑞軍が負けた時だと考え、万全の準備を行っていた。
「当初の予定通り、新判単独で防戦するのではなく、周囲の地形を利用して守るんだ」
そのため岳全翔は東側の山系の頂上に設けた指揮所に拠点を移していた。ここからならば東西南北すべての方向を広く見渡すことができる。
「すぐに新判に戻れればいいんだけど……」
岳全翔の願いは露と消えた。段至瑞軍の敗北の第一報が届けられた。
「……戦になるか……」
岳全翔は不本意な戦をすることになった。しかし、この不本意な戦が岳全翔の名を知らしめることになった。




